ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

消えていく点が、ひとつ

家父長の化身のような生き方をしてきた人が持病の発作を起こし、短期入院をした。退院は自宅でそのときを待つという意味らしく、帰宅してこう言った。「あとは好きなことだけをして、人生を全うする」と。口にはしなかったが内心は「いやいやいや、あのさ。いままでも散々好きなことだけしてきたから。何を今更」である。馬耳東風な心持ちで、その人が自分の来し方を振り返る問わず語りを聞いていた。すると「自分はいままで男としての務めを果たすために生きてきた。これからはその責任から解放されたい。好きなことをしたい」と言うので、びっくりした。この人は、ほんとうに、なんの疑いもなく、そう信じて生きてきたのだ!いつも定位置に不動、家族であっても女性を蔑み、罵倒し、自分の経済力をもって縛り付け、誰彼構わず好き勝手な物差しで評価して見下し、聞きたくないことには耳を貸さず、そのくせ自分の言いたいことは相手の言葉を遮ってまで言い切る(そしてそれは大抵の場合、無礼で思いやりにかけ、相手を傷つけるために振り回される刃物のような言葉だったりする)が、一方で自分の下着がどこに収納されているのかまったく分からない、まさに「家父長」という言葉の表すところそのままの言動。何度となくわたしたちを傷つけてきたその言動は、わたしたちのために自分の人生を捧げ責任を果たした結果である、それこそが家父長である自分の責務である、とその人は心の底から、まっすぐに、そう信じているのだ。そうか。それは彼にとっては正義だったのだ。好き勝手など、なにひとつしてこなかった。常に家父長らしくあることが、家族のためであると信じて生きてきたのだ。なんという内面化。なんという無自覚。分かっていたつもりでも、実際に本人の口から出たその言葉を聞いて、とにかくわたしは驚いた。

ところが、わたしの驚きはだんだんとさみしさに変わっていった。わたしはとてもさみしかった。なんてさみしいことだろう。わたしが感じているこのさみしさを、言葉にするのはとても難しい。でも、わたしはいまとてもさみしいのだ。分かり合えないからさみしいのではない。そんなもの、相手が誰であってもほんとうに分かり合えることなんて、そうそうない。分かり合えないことがさみしさではないのだ。

わたしたちは、点だ。空間にぷかぷか浮かぶ点。くっついたり、離れたり。ひとつになることはなくても、わたしたちという点と点が偶然にくっつくその瞬間を、共有することができる。共有から、点と点の間に細い線が生まれる。またくっついたり離れたりしながら線を増やして、わたしたち点は、漂う。わたしには偶然のもたらすその瞬間がとても大切だ。

けれどその人とわたしは、それぞれが透明な壁越しに相手を見ていただけだった。どんなに声をあげても手足を振り回して訴えても、わたしが発するものは、彼には届かない。だから同じ空間に浮かぶわたしたちという点と点がくっついたように見えただけで、実際はなにも起きなかった。昔はこの壁に行き当たるたびに、怒りを覚えた。なぜこの壁に気がつかないのか。互いに同じ点、それ以上でもそれ以下でもない、皆同じ、ただの点、であることを分かろうとかしないのか。怒っていた。年齢を重ねるうちに、怒りは諦めに変わった。そしていまは、それがさみしさになった。とてもとてもさみしい。わたしたちは皆、いつかここから消えていく点。みな同じ点なのだ。消えていくこと自体にはあまりさみしさを感じない。そういうものだ。わたしたちは、いつか皆消えていく。同じ空間に在って、漂いながら、偶然なにかを共有できるかもしれない幸運に恵まれることもある。なのにわたしとその人というふたつの点は、透明な壁に阻まれて互いの声さえ聞こえない。そして点がひとつ、消えようとしている。それが、とてもとてもさみしい。怒りも諦めもない。とても、さみしい。

そんなきもち

たまに自分で自分のブログを読んで、振り返る。基本的に「そのときに読んで感じたこと」を書いているので、後日読むと「あちゃー」ってところがたくさんある。まあ、恥ずかしい。ただ、「そこんとこ見直して今後に応用できればいいよねー」くらいに留めておいて、あまり執着しないようにしている。

ここに書いてあるのはどれも、読書の感想で、わたしがなにかをジャッジしようとするものではない。たとえばフランシス・ハーディング『嘘の木』を読んで、「人生は闘いなのよ!女も闘っているのよ!」というのが、わたしが人生に対して下したジャッジメントかというと、そんなこともない。いや、そう感じたことがあるから、読んだものに誘われてそのことを思い出したりする。かと言ってそれがわたしの持つ、人生に対しての揺るがない考えかというと、そうでもない。

本を読んで色々思い出したり考えたり、思考や記憶が小さいながらも点を打つ。それがどうやって繋がっていくのかは自分でも予想できないんだけど、生きているうちにたくさん本を読んで、たくさん点を打てたら楽しいだろうな。そんなきもち。

フランシス・ハーディング『嘘の木』*作品の内容にも触れています*

幼年期の終り Coming of Age は、隠されていた真実を手にする代わりに、何か大きなものを手放す、喪失の儀式だ。同時に「マジョリティ男性」的なテーマだと思う。主人公が持つことを許された立場という設定が前提にある。それでは、そもそも奪われる立場に生まれてきた者は、幼年期の終りに何を手放すのだろうか。

嘘の木

嘘の木

 

ヴィクトリア朝時代、イギリス。 主人公フェイスとその家族は、住み慣れたケントを後に、ヴェイン島へと移住する。牧師で博物学者の父エラスムス・サンダリーの起こしたある「醜聞」が元で。

父の影響で博物学に興味があるフェイス。美しく「女らしい」母マートル。体の弱い弟ハワード。エラスムス、マートル、フェイスとは、なんともシンボリックなネーミング。冒頭の登場人物紹介パート、科学、宗教、そしてこのネーミングで、物語がどこに向かって進んでいくのか、分かったような気になる。そうなんだよ、確かにシンボリックなんだけどさ… 

醜聞の噂はじわじわと、島にも伝わってくる。そして父サンダリーが死ぬ。その死の真相を追ううちに、明らかになる真実とは…

「…これは闘いなのよ、フェイス!女も男たちと同じように、戦場に立っているの。女は武器を持たされていないから、闘っているようには見えない。でも、闘わないと、滅びるだけなの」

 この作品は、奪われていた武器を取り戻し、女も闘っているという事実を隠すのをやめる決意をする少女の、わたしたちの物語だ。これは、敵がいる闘いではない。人生という戦場でサヴァイヴするための武器を、取り戻すための闘いだ。武器を取り戻さないと滅びるのは、女性だけではないのだから。まさに、シービンガー『女性を弄ぶ博物学』『科学史から消された女性たち』案件、ウルフ『自分ひとりの部屋』案件。「自分らしさ」「アイデンティティ」以前に、「女」であることが役目であり、マジョリティ男性から見た「それ以上」になることは許されない。

女は、男性より小さな頭蓋骨に収まった男性より小さい脳が許す限りにおいて、見目よく賢くなく、夫の求める通りに家庭の切り盛りをし(だが経済的裁量は一切ない)、子を躾ける良き母であり、その枠から出ようなどとせず、感情的でヒステリーを起こしていれば、それでいい。主人公フェイスを閉じ込める、女性という性別の檻。その檻の中で飼いならされている母。科学に興味がないのに、父の築いた全てを受け継ぐ約束をされている弟。読みながら自然とフェイスに感情移入して息苦しくなるのは、この生きづらさが今でも様々な形でわたしたちを縛っているから。

物語の中に細かく散りばめられたたくさんの点をフェイスが迎える幼年期の終わりと父の殺人犯を突き止めるミステリーが結ぶ。緻密。そして、真実は突然やってくる。フェイスは、わたしたちは、知る。誰であろうと、奪われ檻に閉じ込めらた者たちは、たとえそうしているように見えなくても、闘っているのだ。それぞれに。最初から奪われた者たちが幼年期の終わりに手放すのは、自分たちを閉じ込めていた檻そのものなのではないだろうか。

読了メモ・2017.8

とにかく書き続けることが大事。今更ながら、2ヶ月前のこと、載せるゾォ!

 

夏バテして胃腸をやられ、あまり食べられず。外出も極力控えていたので、読書ばかりしていた8月だった。

 

ジェンダー論をつかむ』

千田有紀・中西祐子・青山薫

入門者にやさしい、「つかむ」ところだらけの1冊。テーマが章に、章がユニットに分かれていて、どこから読んでもいい。読み手が身構ることの少ない構成。各章の終わりには参考文献が載っていて、「もっと知りたい」を助けてくれる。

 

灯台守の話』

『オレンジだけが果実じゃない』

さくらんぼの性は』

ジャネット・ウィンターソン

この順で読んだ。発表年の時系列ではないけど、この順で読んで良かった。最初に『灯台守の話』を読まなければ、その他の作品を読もうとしなかったはず。フィクションの中にフィクションがあって、はじまりと終わりはあるけれど、物語はそれより前に始まっていて、そのあとも続いていく。虚実入り混じって、マジックレアリズムのような、記憶のメモのような。簡単に言うと、わたしの好物のやつ。『オレンジ〜』と『さくらんぼ〜』も含め、ウィンターソンにとって個人的に重要なテーマを何度も何度も、形式を変えて語り直す。語ることで痛みを再現し、結末を迎えることでクロージャーとする。ある少女が自分を引き受けていく話。ある家族の歴史はそのまま、自分に繋がる。三作とも岸本佐知子さん訳。ええ、ええ。

 

『変愛小説集II』

岸本佐知子編訳

 別途記事に。岸本佐知子さん編訳作品、間違いない。

 

『鬼殺し』(上下)

甘耀明

「これはあなた好みの作家ではないか」と薦めてくださった方が。なんで知ってるの?マジックレアリズムの良い煮込み。虚と実、子供の目線と記憶、大人の事情と思惑、こちらとあちら、支配と被支配、日本と台湾、漢人客家人… 植民地にされた側の語りなので、読んでいてなんとも言えない申し訳なさ、腹立たしさ、罪悪感、悲しみ、痛み… その全てを包んでいるのが、甘燿明シグネチャーであるマジックレアリズム。小学生で身長180cm、汽車をも止める怪力の持主、主人公パー(漢名・劉興怕)。英雄譚から飛び出してきたような彼は、客家人の心の叫びを映しているかのようだ。甘燿明のマジックレアリズムはしかし、パーを多面体に、支配・被支配様々な角度から見える台湾の面がひとつひとつ、描く。複雑に入り組み重なり合った構成こそが、台湾の歴史。読みにくさは感じなかった。パーが全力を込めて止めようとする汽車。その汽車の走る線路がどのように、誰によって建設されたのか、流された血は誰のものだったのか。その全ての上を走る汽車。汽車とパー、マジックレアリズム。

 

 

『二壜の調味料』

ロード・ダンセイニ

『ウィスキー&ジョーキンズ』系かな、と手に取ったらやっぱりそうだった。ぜんっぜん信用できない語り手を持ってくるところ、とても好き。この語り手、ナムヌモという調味料のセールスマンことスメザーズ。口先八丁ギリギリ、というかそのもの、セールストーク一家にひと壜あれば十分のナムヌモを二壜売っちゃうような人が、ほぼ現場に行かない名探偵リンリーの手となり足となって数々の事件を解決する話。シンプルなセンテンスで何気なくふわっとぶっこんでくるけど、よく読むとすごい怖いこと言ってるぞ、はジョーキンズと似てる。ところでナムヌモって、なに?

 

『すべての見えない光』

アンソニー・ドーア

わたしの中で言うところの『サラの鍵』案件。美しい。美しいんだけど、無理矢理奪われていく話は、なんにせよ、つらい。目が腫れるほど泣きながら、読んだ。うちにいるのに「おうちに帰りたい…」ってなるつらさだった。『サラの鍵」案件、それと分かってるのに読むし、「もう二度と読まない!』とつらさに震えながら、また読む。残酷さ、つらさ、繰り返してはいけない過去。史実を学び、そして「お話」として幾度も語り直されるものは、読まざるを得ない。つらいけど。

 

飛ぶ教室50号・児童文学の大冒険特集』

深緑野分さんの『緑の子どもたち』目当てで。終末、絶望、荒廃。柔らかな緑がその腕に抱きしめているもの。深緑さんは、過ぎ去った時間を見つめ直し、語り直しながら、「人間は戦争より大きい」を描いてくれる。過ぎ去った時間とひとつながりの、いま。前へ進んで行く子どもたち。音、光、色。子どもたちの周りに溢れる緑を通して届く、それらの描写がとてもよかった。松田青子『一人ぼっちの子のための学校の隠れ場所ガイド』、町田康『親に似る』が印象的。その他、『わたしの一冊』とリレー創作が面白かった。

 

『室温』

ニコルソン・ベイカー

はい、岸本佐知子さん訳。ええ、ええ。20分のタイムフレームにおいて展開する、個人的な宇宙。記憶の小さな一滴が次から次へと落ちてきて、次第に部屋を満たし、全てが溶け合って風を起こし、室温になる。「小さな主題」ってなによ?近寄ることでいくらでも大きくできる。なんとなく浮かんだイメージは、クマムシ。ベイカーさん、ごめん。

 

『時の旅人』

アリソン・アトリー

『トムは真夜中の庭で』や『クローディアの秘密』を薦めてくれた友人から。児童書、されど児童書。児童書とは言ったもので、本作約400ページあるんですけど。英国文学史、英国史と深く絡み合っていて、年齢に関わらず、読み応えあり。時を旅するテーマ、好き。

 

『短くて恐ろしいフィルの時代』

ジョージ・ソーンダーズ

はい、岸本佐知子さん訳。もう間違いないやつ。ブッカー賞受賞2ヶ月前に読んだのは、タイミング良かった。単純に、偶然。わたしの慧眼とかではない。全くない。まず手触りがアレゴリカルなので、読み解こうとしばし躍起になったものの、途中で訳者解説を読んで(よくやる)、やめた。委ねたら、めちゃめちゃ面白かった。「お脳… 戻した方がよかないですか?」は、岸本さんの訳文の中でもマイベスト10に入る。ラックの形した体から、お脳が滑り落ちちゃうんですよ、フィルさんは!比喩でなく!空想力に溢れ、立体的。視覚効果のある文章表現、ってすごくないですか?

 

細川ガラシャ

安廷苑

日本史におけるキリシタンの世紀偏愛。細川ガラシャのヒューマンストーリーでも戦国烈女伝でもない。当時の布教地(筆者の専門である、中国と日本… この二つ、同じ東アジア管区…誰も訊いてないと思うけど)における、カトリック教会の婚姻と生死に関する教理を再検討している。これは、日本キリシタン史においてとても重要なテーマなのだが圧倒的な勉強不足なので、これからも頑張る(突然の表明)。

 

14冊。読書のスピードが遅すぎる。暑さに苦しんだ夏だった。

語りかけてくれる声

難しい本を「難しい」と思う時、自分は筆者が想定している読者じゃないのかな、とちょっとせつない。「知識人」じゃないと得られないものがあるのなら、きっとわたしは生きてるうちはそこには届かないから。ションボリする。「それならば入門書を」と手を伸ばしてみても、なかなか「これ!(ピコーン」というものに当たらない。それでさらにせつなくなるわけだ。

女性学/男性学 (ヒューマニティーズ)

同じ目線から、語りかけるように書かれたもの。目の前にいるかのように語りかけながら「さて、これについて、あなたはどう考える?」と問いかけてくる、その絶妙なタイミング。各章結びにハッとさせられるくだりがあり、それに触発されて各章の内容を反芻したり気になるところを再読したり。そもそもの想定読者はハイティーンの読者の入門書?いやいやどうして、不惑の年を超えた人間にも、学びの機会を与えてくれた。第3章の結びにある「学問の懐に入り内側から食い破る」という一言には、胸をわし掴みにされたね。学問の懐に入るために、それを内側から食い破るためには、自らの内側を探り食い破ってこそ、その先へ進めるのではないか。そういう覚悟で女性学に向き合っている。ギュッとされた。とてもつらい。でも向き合いたい。つらくて痛い。でも、読みたい。食い破りたい。
もうひとつ。入門書としての本書の魅力として、さらに興味を持った読者に次のステップとなる書物をたくさん紹介してくれるところがよかった。このあと、どっちに向かって一歩踏み出すの?好きなのを選んで!という、声。「あれもこれも読みたい読みたい」ってやっているうちに、脳内積ん読がとんでもないことになった。

ジェンダー論をつかむ (テキストブックス[つかむ])

次に、千田有紀中西裕子・青山薫『ジェンダー論をつかむ』。本書もまた、語りかけ、問いかけてくる声。「好きなところから、好きなだけ読んでいい」という構成も、入りやすい。「ここが気になる人は、こちらのページを読んでみて」「もっと詳しく知りたい人には、こんな本もあるよ」と付箋いらずの道案内もありがたい。知らなかったこと、分からなかったこと、知っているつもり、わかっているつもりになっていたこと、目から鱗がサラッと落ちる。

 

遠く感じていたものを、手の届く距離に持ってきてくれるのは、語りかけ、問いかける声だった。せつなさが、ちょっと減った。

 

 

開店休業

さてさて、ここんとこ、更新もせずご無沙汰の弊ブログ。ここでわたしは、パワーワード「バタバタ」のカードを切る。バタバタしてんのよ。インプットとアウトプット、両方に十分な時間が取れないとなると、どうしても読む方の練習に傾く。で、書く方は後回し。出すより先に、とにかく目一杯詰め込む。つまり、食い意地と同じ。こういう欲は、全方位、さまざまな形で現れる、同一のもの。

読み終わった本の感想だけを記録するブログ。これはいまでもあまり変わらないけど、いかんせん開店休業が長すぎる。わたしのように、文章表現力が限りなくゼロに近い人間は、ヘタはヘタなりに、保つより錆びる方が易い。

バタバタしていると、頭の中にフヨッと断片的な、文章のようなものが浮かぶことはあるが、これまた消えるのも早い。最初はそれでもいいや、ってそのままにしていた。

しかし、この「フヨッ」をしっかり掴んでおかないと、なかなかその先に進めないのだ。せめて、走り書きでも。焦って色々考えた。いまの自分が置かれた状況を反映させたっていいじゃない。続けることが大事なわけだ。しばらくは、今までよりも軽めに、本や読書にまつわることを書いていきたい。読んでくださるみなさまにとっては、なんのことはない走り書きにしかならないこともあるだろう。気が向いたら覗いて頂ければ、とてもありがたい。

柴田元幸責任編集 MONKEY vol.12 『翻訳は嫌い?』

平積みされているのを横目に通り過ぎる、というのを、数日に渡って、何度か行う。そののち、買う。結局買うのに、どうしてすんなり買わないのか。それは必要な通過儀礼なのか。好きな連載(川上弘美さんと岸本佐知子さん)もあるし、どうせ買うんだし、なんだったら購読しようよ。

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

毎号なにかとわたしを惹きつけるものがあるこのMONKEY、今号はリディア・デイヴィスノルウェー語を学ぶ』。好きなものは取っておいて最後に食べるタイプの偏食なので、まずは巻頭から読んでみた。食べてみたら好きだった、に繋がったものをいくつか。

柴田元幸 『日本翻訳史 明治前半』

文語体、口語体、それぞれの良さと移り変わりを教えてくれるアーティクル。新しい文体(口語体)に近づけば近づくほど薄まる文語体。文語体の作る独特の要素、世界観を鮮やかにする。文語体を分解し作り直してできあがっていく口語体が展く、新しい世界。文語体が苦手だったけれど、あれれ?食わず嫌いが邪魔していたかな?と感じさせるのは、さすが柴田元幸さん。外国語から日本語だけが、翻訳じゃない。

石川美南/ケヴィン・ブロックマイヤー『大陸漂流』

「陸と陸しづかに離れそののちは同じ文明を抱かざる話」石川美南の詠んだ歌を、ケヴィン・ブロックマイヤーが短編小説として「翻訳」した。陸と陸が離れて行って、またひとつになる話。離れながらひとつであり、離れながらそれぞれに多様化して、またひとつになる。そこからさらに生まれる多様性、懐かしくて新しい文明。いや、こういうポエミィな感想しか出てこない自分、残念だなーと思うくらい、良かった。

小沢健二『日本語と英語の間で』

これは自分でも意外だった。小沢自身の言語習得体験を、自分の子どもの成長と日常に重ねて、翻訳する。日本語と英語の間に生まれる、小さくて確かで豊かなもの。「オーケー、ジャパン」と言う、小沢の清々しさ!ならばそういう世界へ行こう。新しい地平への誘い。小沢にここまで揺さぶられるとは、ほんとに意外だった。

リディア・デイヴィスノルウェー語を学ぶ』

この作家の、言葉に対する試みがわたしを掴んで離さない。『話の終わり』に感じたあのエキサイトメント、ふたたび。

分解する、組み立て直す、まとめる、ふりかえる、続ける。何度も読む。本の余白に書き込む。繰り返し出てくる単語を、ラテン語、英語、仏語、独語など、知っている言語と照らし合わせて、あたりをつける。自分だけの単語帳を作る。文脈から読み取る。自分で文法を作る(!)。何度も読む。

ノルウェー語が分からないのにノルウェーの作家が書いた小説が読みたくて、読む。あるのはその本と自分だけ。そこからノルウェー語を学ぶ… というよりは、自分の中で作り直しているかのよう。

余白に書き込まれた自分のメモを見ながら「私は能動的にページを読んでいたのだ。読みながら書いていく。開きたての、いまだ読まれざるページは美しく、すでに読んだページは美しくなかった。」ここんとこ、グッときましたね。美しくなかった、とは審美の問題ではなく、それは自分自身が混ざり合ったもの、既知のものであるということではないか。自分が混ざり上書きされる。視覚的にそれは別の物語になる。物語を能動的に読むと、それは避けられないことなのではないか。読んで、自分の記憶となるまで思考の中で何度も何度も転がす。もちろんリディア・デイヴィスに感化されて、ラテン語入門者向けの物語本、買いました。

 

翻訳とはなにか?答えを出すためではなく、考えることに繋げて、読んだ。