ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

母方の大叔父は、寡黙な人だった。

わたしが覚えている限り、会話と呼べるようなやりとりをしたことがあるのは、2回。
達筆な人で、それを活かして東京大学史料編纂所の資料保存技術部に勤務しているという噂(本人は一切口を開かないし母方の親戚は法螺話が多いのであまり信用できない)だったが、大叔父宅に所狭しと飾られたわたしの知らない文字、いまではそれらが篆書や隷書だったと分かる、で書かれた掛け軸は、当時のわたしにはあまりよくわからなかった。
 
夏だというのに、陽の光も入ってこないような奥まった大叔父の部屋に、どういうわけだか誰にも見咎められずに入り込み、掛けられていた書に手を伸ばして、そこにある文字の、その不思議な形に触れたら、意味が流れ込んでくるのではないか、と空想の世界に片足を入れたくらいのタイミングで、いきなり後ろから声をかけられて飛び上がったのを覚えている。
「おもしろいか?」
後ろから声をかけられて振り返ると、それは大叔父だった。初めて聞く大叔父の声は、低くてゴツゴツしていて、そしてやさしかった。
なんだか不思議な形をしている字だしなんて書いてあるのかわからないけど触りたくなって、とかなんとか、とんちんかんな返答をしたように思う。大叔父は静かに微笑んで、それ以上なにも言わず、部屋から出て行ってしまった。大人から怒られたり粗雑に扱われるのが当然だった当時のわたしにとってそれは忘れられない思い出になり、血が繋がっていないのを残念だと感じるほどに、寡黙だけどやさしい大叔父がだいすきになった。
 
一方、血の繋がりのある大叔母は、おしゃべりという言葉が大叔母の前では尻をまくって逃げ出すと評されているほどおしゃべりだった。いつも自慢話をしているか誰かと口論しているか、のどちらかしか記憶にない。その大叔母はふたりの子供を連れて満州から引き揚げてきたという経験をした人で、いまのわたしなら忍耐強く聞けるのかも知れないその体験談も、当時は「また満州?」と何度も繰り返される同じ話にうんざりしていた。
「必死になって逃げてきた。うちの子供らの命があるのは自分のおかげだ」という大叔母の『満州話』にはいつも、大叔母と2人の息子たち、つまり母のいとこたちしかでてこなかった。
「おじさんはそのときどうしていたの?」
あとで母から、そんな馬鹿な質問をして、ものを知らない子だと叱られたのだが、何度聞いてもわたしがだいすきなおじさんが一向に話に登場しないので、気になったのだと思う。「しらないのかよ!おじさんはそのときずっとシベリアにとられていたんだよ!」と大叔母が言った。その「シベリアにとられていた」ということの意味がわたしにはよく分からなかった。「もう死んじまったと思っていたら、戦争が終わってずっとしてから生きて帰ってきたんだよ」
そこからその夏の記憶が定かではない。おそらく話題はそのまま大人たちのものになり、わたしは置いて行かれたのだと思う。
シベリアにとられて、死んじまったと思っていたら帰ってきた」大叔父は、生きて帰ってはきたけれど、それ以降、滅多に言葉を発さなくなったのだという。
 
その翌年だったのか数年後だったのか、8月のある日、迎え盆のためにわたしはまた、祖母と母、妹たちと大叔父宅にいた。
体調が芳しくないという大叔父は、くれ縁に据えられた座椅子に座って庭を見ていた。
不器用な上に言いつけられたことをきちんとこなせないわたしは、それ以上叱られるのが嫌で台所から逃げ出して隠れ場所を探していた。そしてくれ縁に大叔父の姿を見つけ、隣に腰掛けた。台所の喧騒などさっさと忘れたわたしは、大叔父と二人、黙って蝉の声を聞いていた。迎え盆の準備は、戦死した祖母と大叔母の末弟のためのものだったし、子供心にそれが適切な話題だとでも思ったのだろうか、それともうるさい大叔母から聞かされるくらいなら本人から、とでも思ったのか、わたしは大叔父の静かな横顔に何気なく声をかけた。
 
「おじさんはどうしてシベリアにいたの?おじさんはシベリアでなにをしていたの?」
 
大叔父はずっと庭を見ていた。なにも言わなかった。その沈黙に、訊いてはいけないことを訊いてしまったのだと感じた。やさしいおじさんを怒らせてしまった、ついに叱られると思った。大叔父がどのくらい黙っていたのかは、記憶にない。覚えているのは、蝉の声、夏の日差し。「知らなくてたっていいことも、あるんだ」低く厳しい声で大叔父は言った。やさしい人だと思っていたので少しビクッとしたけれど、大叔父は怒っているようには見えなかった。ただただ、静かだった。けれどわたしは、そこには目に見えない壁があって、これ以上大叔父に近寄れないのだと感じた。
 

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』は、記憶の記録であり、語らない、語れない、語りたがらないひとたちに、語ってもらう、オーラルヒストリーである。語ってもらうこと。それは容易なことではない。自ら志願して前線へ赴き戦った彼女たちが次世代ともいうべき相手にその記憶を語ったのは、アレクシエーヴィチの働きかけと努力の賜物であろう。それは、この本のそこここに読み取れる。実際に語り手たちが語り始めるまで、どれほどの紅茶を飲んで、どれほどの的はずれな時間を過ごしたのだろうか。
語るには「あの時へ戻らなければならない」からそれが苦しくてつらい、というインタビュイーの言葉があった。アレクシエーヴィチは、語り手とともに「あの時」へ戻り、ともに追体験したように思えるし、それは双方向でつらい作業であることは間違いない。
インタビュイーたちはみな、ファーストハンドで戦争を経験した。志願して「女が来る場所ではない」ところへ行った。「人間を越えた」「歴史のスケールを越えた」戦争。それは当時のソ連の思想や主義だけが理由ではないだろう。男でさえ語る言葉を失くしてしまう「女がくるべきではない」ところへ。住み暮らしている場所が戦場にされてしまうような状況、その悲惨さを実感している状況でなお、なにがこのひとたちをそこまで駆り立てたのか。
ファーストハンドで語られる、従軍した女性たちの経験。記憶。思い出として語られる戦争の話を縦糸に、アレクシエーヴィチのコメントを横糸に編まれていく一枚の布。『知られていなかった女たちの物語』とアレクシエーヴィチが呼ぶもの。
 
戦争の前からあり、戦時中もあって、戦争は終わったのにまだそれはあり続けるもの。戦場においても、主人公はあくまで男たちであり、女たちは「来ちまったもんはしょうがない」扱いで、愛国も献身も犠牲も、男たちとなんら変わりがないことなど、認めてもらえなかった。戦争が終わったあと、志願兵として戦場へ行った女たちの多くは、そのことを語らなくなってしまう。復員した女たちの中には、心身に傷を負ったまま、恩給さえもらえずに貧困の中に生きている人もいた。読んでいるうちも思わず本を閉じることが何度かあった。これをアレクシエーヴィチは、本人から長い時間をかけて聞き取ったのか!巻頭の『人間は戦争よりずっと大きい』に戻っては、何度も何度も読んだ。ひとりひとりは、ちっぽけな、おんな。でも彼女たちは戦争よりずっと大きいのだ。繰り返し繰り返しそこに戻り、自分が単なる読者であることを再確認しないと、流されたまま戻れなくなる。オーラルヒストリーの生々しさを改めて感じた。実際、読んでから数ヶ月経つのに、まだわたしの中ではきちんと処理できていない。それほどのパワーを持ったものが、群れをなして駆け抜けていき、それが去ったあとも、わたしはひとりでそこに残された感覚。立ち尽くしたまま、茫然としている感覚。『記録とは生き物だ』とアレクシエーヴィチは言う。『これはわたしたちとともに変わっていく。尽きることなく、得るものがある』…心に刺さる。ここに記されたオーラルヒストリーはすべて、生き物のようだ。そして、この生き物が与えてくれる『尽きることのない得るもの』のために、それと生きていくために、わたしたちはまず、知らなければならないのだろう。
 
大叔父の記憶は、大叔父とともに消えた。歴史は残る。でも、記憶は消えた。大叔父は、なにを思い、なにを生きて、なにを語らず、そして死んだのか。今となっては誰にもわからない。この喪失感により、こんなセンチメンタルな感想しか出てこない。