ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

徒然なるまま

親友から「いつも喋る通りに書いてみれば?」とアドバイスをもらったので、やってみる。

 
視覚・聴覚からの情報がどれもほぼ同位に入ってくるという厄介な状態も、この年になると逃げ場をいくつか作っておく工夫ができるようになった。最高の逃げ場は風呂場。入浴中、つまり湯船に浸かりながら読書やドラマ・映画を鑑賞をするのだが、困ったことに「ながらメモ」が取れない。直後にメモをすればいいのかもしれないが、毎回必ずできるかというとそれもなかなか難しい。瞬間的に思いついたこと、浮かんだことを長期的に覚えておければいいのだけれど…たまにしか降りてこない我が「賢者モーメント」は、やって来るとほぼ同時に泡となって消える。
 
...という言い訳もどうかと思い、まずはいまできる限りのことをやってみよう、それから言い訳しようと思い立ち、「賢者モーメント」のキャプチャを試みた。結果からいうと、思考を湧き出て来るそばから書き留める、というのは入浴中に限ったことではなく、どんな状況であろうと簡単なことではないのだ。ちゃんちゃん。
 
とにかく偏愛的で、ちょっとでもとっつきにくそうだと触れもしないという選び方を続けてきたが、偏りすぎるのは視野を狭めることになりかねない。好きなものしか読まないことに変わりはなくても、選択の幅を広げてもいいんじゃないか。そこで、今年の目標に「途中で投げ出さない」を掲げ、それを達成すべく再挑戦した結果、若桑みどり著『聖母像の到来』をようやく読了。履歴によると、購入したのは去年の11月。長かった。『クアトロ・ラガッツィ』経由でたどり着いた一冊、「日本キリスト教美術」「東アジア型聖母像」という視点が興味深かった。
 
それが意外な広がりを見せるのがドニー・イェン主演『モンキー・マジック 孫悟空の誕生』を観たとき。体調がすぐれなくて、何の気なしに観始めて今ではドニーさんの虜になった。とにかくドニーさんが本気で猿を演じているのがすごい。大スターなのに、猿に本気。その昔ジャッキー・チェンが大好きだった頃(あ!文字にしたらなんか恥ずかしい!)『プロジェクトA』を観て「なんでわざわざそんな高いところから飛び降りるの?!」と半泣きになったことを思い出した。香港の人ら、本気だ。閑話休題
 
小学3年から4年の頃シルクロードにハマッていたので『西遊記』は好きで何度も読んだのだが、ドニーさんの神々しさに見惚れていたら突然シナプスが活性化。日本にキリスト教があれだけの速度をもって短期間に広まったのはベースに本願寺派一向宗と「寺内」という民衆の共同体の結合力(からのコンフラリアの受容)という論考(こちらも現在途中下車状態)、ヴァリニャーノの適応主義、日本、中国、本地垂迹、「土着化」、東アジア型聖母像… 『西遊記』でつながって、『聖母像の到来』が長期記憶の棚に乗った感覚。なにがきっかけになるか、分からないものだ。ドニーさんありがとう。
 
ひとつでも成功体験があれば、次につながる。同じく挫折していたジュディス・バトラージェンダー・トラブル』とあえて併読で、こちらは積ん読だったアン・レッキー『叛逆航路』を。『薔薇の名前』『聖母像の到来』完読から得た成功体験で、よく分からないところがあってもとりあえず進め、power through itと呼びながら進む速度はノロノロと、しかしあきらめず。一回目の黙読で入ってこなければ二度目は音読。分かるまで何回か音読。実際に声に出して読むと、なかなかどうして、入ってくるからバカにできない。『ジェンダー・トラブル』なんで積んだままにしといたんだっけ?いままでの自分の立ち位置や視点を再考するきっかけが、毎文に。いまちょうど第1章セグメント7を数頁残すところに差し掛かった。ここまで読んで浮かんでくるのは、もし二項の背反が問題なのではないのだとしたらどうなるのか?もし、二律背反を前提とする従来の視点自体がバイアスになり得る?もっともっと考えたいのに先に進まない。読書速度と読解の遅い我が身が恨めしい。
 
そうやって自問自答しながら見つめ直すと、いろんなものが二項の対立をベースに描かれた物語に見えてくる。『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』を受けて『キャプテンアメリカ シビルウォー』でも女性キャラクターの苦悩を描いているのは分かるんだけど… 男性キャラクターの苦悩から人間性を描き出すストーリーに乗せて考えると、女性キャラクターのそれは掘り下げが足らない。その不足は結局、この世界観が家父長制の中のシンボリックな父殺しと息子の成長自立の物語だから?女性キャラクターはそのシステムの中での扱いに尽きてしまうのか?マーベル・シネマティック・ユニバースはすでにその展開が結末まで描かれている(executive decisions have been doneという意味だと思う)らしいのだが、もし世界観自体がオルタナティブユニバースの扱いであるなら、そのあたり、もう少し原作からの脚色を加え、女性キャラクターにも深みが出るよう時間を割いてくれてもいいんじゃない?ブラックウィドウ/ナターシャなんて、最適だと思うんだけど… 
 
とその頭のままネットフリックスで『Sons of Anarchy』を第6話まで。スーパーパワーを持ったヒーローたちの物語と比較し易い。視聴のタイミングが良かった。MCUでもDCでもヒーローたちは自らのスーパーパワーに翻弄され、しかしそれを隠しておくことができない。仮面をかぶり、正義のためにその力を使うことで自分の存在意義を世に示そうとする。しかし人々はみながそれを救済と見ない。「正義の味方かヴィジランティ(自警団)か」これはヒーローたちにとって命題で大きな障害でもある。さてさて、もしもこのヒーローたちにスーパーパワーがなかったらどうなる?それが『Sons of Anarchy』。素の暴力となんでもかんでも銃ぶっ放す物語。しかしここでもヒーローたちは自分たちの信念と正義、チームの規範に基づいて行動する。父殺しのテーマもそのまま。ヒーローたちの哲学に引っ張られて動く女性キャラクターも然り。どちらの命題も「正義の味方かヴィジランティか」なのに、こっちのヒーローたちはヴィジランティにしか見えない。二つを分けるものはなんだろう?そう考えながら観るとおもしろい…んだけど、どちらにしろ、女性キャラクターの扱いはいまのところほぼ同じなので、今後『Sons of Anarchy』展開に期待。エマ・ゴールドマンの「アナキズムとは」の引用にはなんか知らんが涙が出た。
 
アン・レッキー『叛逆航路』邦訳読了後原著を読むかどうか、すでに迷っている。人物に対する三人称がまず「彼女」で、そのあと一人称の語り手が何らかの形で確認するまで、その人物の性別は明らかにされない。それだけのことなのだけれど、実際読んでいると性別の言及を求めている自分に気がつく。男性か女性か、自分が物語を読み進める上でこれほど無自覚に、そこを明確化しようとする意識が働いていたとは、思いもよらなんだ。これまた、タイミングいいな。
 
そんなことをつらつら考えながら、いまを過ごしている。