ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

短編偏愛の日々その2 <ジョイス・キャロル・オーツ>

MONKEY vol.9で超短編を読んで興味を持ち、トライアル、くらいの軽い気持ちでダウンロードしておいたBig Mouth & Ugly Girl のKindle版サンプルを読んで衝撃を受けたのが、ジョイス・キャロル・オーツ。ななななんですか、このひとは?!サンプルは英語で読み通販サイトで確認すると、数冊すでに邦訳されている。それなら英語と邦訳、どちらで読む方がしっくりくるのか?残念ながらKindle版には邦訳がない。でもどうせ読むなら、よりしっくりくる方で読みたい!欲求積ん読体質に勝ち、図書館ニガテなのよーと言いながら、邦訳短編集を検索して『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』を借りた。図書館で借りると積んでおけないので、わたしにとってこれは背水の陣を敷く構え。えいやっ!と読み始めたら… すべては取り越し苦労に終わる。あれ?わたし、こういうジャンルすきだったっけ?と首を傾げながら、読んでしまう。ミステリーなの?ホラーなの?いや、そこをハッキリさせる必要、ある?

 

とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ---ジョイス・キャロル・オーツ傑作選

 

『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』に収められた作品はどれも、視点と描写、語り口の妙。同じカメラを通して、語り手と読者に同じものが見えているそこには、語り手が内、読み手が外というポジショニングがある。ジョイス・キャロル・オーツの映像を喚起させる描写と心理的内面描写、ストーリーテリングの技、それらを短編という名のボウルに入れて見ると出来あがる、なんとも言えない居心地の悪さ、不安、歪み。それらの配分が絶妙なのだ。

 

冒頭はストーリーテリングに乗っかって、映像的描写と心理的描写が互いに友好的配分。そのうち、その配分が少しずつ少しずつ変わっていく。外からの視点で眺めていたはずが、いつの間にか主人公の視点に焦点を合わせている。そこからどんどん語り口に引っ張られてゆき、主人公の心の声が映像的描写より力を持つようになる。少しずつ少しずつ、世界がずれていくのだ。目の端にずっと、飛蚊症のように現れて消える、黒いもの。ぐっと目をこらすと見えなくなる。そうしてただなんとなく視界の端にあったりなかったりした違和感が、あるとき「気のせい」が「恐怖」という1枚の大きな幕布となり「バササッ!」と目の前に落ちてくる瞬間がやってくる。けれどそれは、予定調和。きっとそうなるだろうという「ずれていくカメラ」のヒントを、ジョイス・キャロル・オーツは映像的描写にしていくつもページに留めておくのだ。

 

わたしが好きなのは、やはり文体。あと絶妙な塩加減のように操る映像的描写と心理的描写。継続する時間を切り取ったような構成。あのときもいまも同じように時間は流れているが、その時間の流れの中にある自分の世界はいままでと同じではない。そこに諸行無常感がある。プロタゴニストがいてアンタゴニストがいて、だが次第にどちらがどちらだか、分からなくなってくる。プロ?アンチ?そのルールに則って読み解こうとする読者を、語り口で惑わせる。

 

歪んだ認知。表題作『とうもろこしの乙女』は、現実を自分の認知する世界に寄せようとする十代の少女の話。彼女はなにかを強く欲している。しかしいまの自分にはそれを手に入れられない。そこで無意識ながら自分の身代わりに「とうもろこしの乙女」として儀式に捧げる少女を拉致してくる。そして自分の世界にどんどん入り込んで行く。儀式のために支度を整えられているあの子はいったい誰なのか。

 

陰と陽の反発と融和。特に双子を扱った2編は、興味深い。周囲にとっては愛されるべき人間の持つ、自分にしか見えない悪意。自分と同じであって同じではない。いや、同じ?

 

またメタフォリカルなあれやこれやを技のきいたストーリーテリングでつなぐスタンスも、好み。感情移入が難しい設定にしておいて、読み手が感情移入したくなってしまうようなキャラクターの設定。

 

この短編集を読んだあと、もういちどBig Mouth & Ugly Girlを読んでみた結果、これだけ「自分に合う」作家だと、英語邦訳はあまり関係ないなと思った。邦訳はオリジナルの文章が持つパワーをそのまま移植したかのようなもので、これは訳者さんのお力。

 

あまりにジョイス・キャロル・オーツが好きすぎるので、このあと長編『フォックスファイア』と『邪眼』も借りて読む。