ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

『そしてカバたちはタンクで茹で死に』

『幻のカバ本』こと『そしてカバたちはタンクで茹で死に』を読んだ。ウィリアム・バロウズジャック・ケルアックの共作で、それぞれが順番に一章ずつ。1944年に起きたルシアン・カーによるデイビッド・カマラー殺害事件、いわゆるカー・カマラー事件が起きるまでの彼らの日常を、1945年に綴る。しかし長いこと版元が決まらず、『幻』扱いだったそうだ。

 

そしてカバたちはタンクで茹で死に


バロウズ裸のランチ』そしてケルアック『オン・ザ・ロード』のみ、どちらも映画化されたものしか観たことがないので、このカバ本がわたしにとって初めてのビート文学作品。さらに、カー・カマラー事件のことは、友人が薦めてくれた映画『キル・ユア・ダーリン』を観るまで、なにも知らなかった。

『キル・ユア・ダーリン』は当時コロンビア大の学生だった、のちの詩人アレン・ギンズバーグを主人公に描かれた作品で、もちろんケルアックもバロウズも登場する。アレン・ギンズバーグの視点から彼の内的葛藤、ビートニクス、事件などが描かれている。その流れから、きっとカバ本にはケルアックとバロウズから見たカー、カマラー、そして二人の事件が書かれているのだろう、と読み始めたが… そこに到達する前に、まずギンズバーグが登場しない件で「???」となり、いつまで経っても事件が起きないので「???」となった。実在の人物たちの内的心理描写や実際に起きた事件の詳細を求めてカバ本を手にすると、ガッカリすること間違いなし。ここには事件に関して明確なこと、決定的なことはほとんど語られていない。

カバ本は、ウィル・デニソンことバロウズ、マイク・ライコーことケルアック、交互にそれぞれのナラティブで時間が重なったり後戻りすることなく、直線的にストーリーが進む。そして、彼らを取り巻く人々の中に、フィリップことルシアン・カー、アルことデビッド・カマラー。バロウズもケルアックもとにかく、「誰が誰と何時にどこで落ち合って、そのとき誰それはこんな身なりで、飲み食いしようにも何にいくら必要で、誰がその資金を調達して、何を飲み食いし、誰がどこに行ってなにをして、寝て起きて… こいつにはうんざりだ、あいつがこう言うのにおれはこう返した、そしたら彼女があんなこと言ったからこいつはこうした… 」を積み重ねてストーリーを進めてゆく。これがのちに「ビート・ジェネレーション」と呼ばれるこの作家たちの、初期の価値観の体現のようなものなのかしら…。自由ということは同時に食べるものがなくてぴーぴーしてる、くらいの初期の話?

訳者あとがきには「小説的処理がされていない」 と書かれていたし、たしかにゆるゆるとした日常の、些末な事柄について描写が続くだけの作品。それでもほぼ一気に読んだ理由は、主に会話。とても素っ気ない。でもその素っ気なさの裏に隠された親密さ、脆弱さ、執着。コインの裏表が、交わされる会話から浮かび上がってくる。そしてその日常的な会話に、まるで「昨日も言ったけどさ」的目配せのように、カーとカマラーの関係性、互いにいままで相手にどんな印象を抱いているか、これからどうしようとしているのか、などの話題がはさまれる。会話とそこに含まれる「時間の連続性」のようなもの。会話から生じた共同体の中の連続性、連帯感のようなものが感じられてとても興味深かった。

 

事件そのものがどうやって起きたのか、そのあとなにがあったのか、その文脈では語られていないけれど、共同体の連続性、連帯感のねじれた環、そのねじれの中でも、とりわけ大きなねじれ。それを形作るかのような描写が積み重ねられる。クライムノベルでもノンフィクションでもない。だから、カバ本がなにが起きたのかを語るとき、その文脈のとらえ方によって読み手の「語られていること」「語られていないこと」についての認識にかなりのバリエーションがあると思う。わたしは「語られていること」が「語られていないこと」をより際立たせ、「語られていないこと」が「語られていること」をより照射すると思った。

 

同時にわたしが気になったのは、バロウズとケルアックがどこまで「事実に触れよう」と思って書いたのか、ということ。言うまでもなく、彼らの生きた時代、カバ本が書かれた時代に、「セクシュアリティ」の話題が現代と同じように扱われていたとは思えない。暗黙の事実だったとしても、どこまでそれについて詳細に語ることをバロウズとケルアックが良しとしたか。そこがとても気になる。小説的技巧以前に、「語らないこと」が彼らにとっての共通理解だったかもしれない。