ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

短編偏愛の日々その5<岸本佐知子編訳 コドモノセカイ>

短編偏愛モード、絶賛継続中。なんでこんなに続くのか。この世は読むべき短編で溢れているからにほかならない。

 

コドモノセカイ

 

『居心地の悪い部屋』に続き、岸本佐知子さん編訳の短編集2冊目。いつもならブログのために数編、特に印象に残ったものを選ぶのだが、今回はとても難しかった。どれも単純に「古き良きあの頃」な話ではないし、単純に無邪気さや純粋さの詰まったキラキラした話でもない。ノスタルジックでもない。むしろ、子供だからこそ、の当惑困惑、悩みや痛み、閉塞感や不快感が描かれている。たとえばジョー・メノ『薬の用法』のように。薄気味が悪く、しかしどこまでも子供の目線なので、読後にそれが「大人の視点からのジャッジメント」に結びつきにくい一篇。だからこそそこには、わたしの知っている「コドモノセカイ」がたしかにある。

 

カレン・ジョイ・ファウラー『王様ネズミ』

子供の頃の自分の無力と、人生を超える悲しい出来事への年齢を問わない無力。無力な自分の感知できないところで、その悲しい出来事はもう起きたあとだった。それぞれの過去を否定せず、いまの自分にあるフィクションの力をもってして、すべてを受容する話。子供の視点を保ちながら大人の視点で時間を往き来しつつ。その頃も今も、どうにもならなさ、救われなさはそのままなにも変わらない。ナレーターとして突然姿を現した作者が、フィクションの名のもとに、過去を受容し、抱きしめる。その安らかさ。

 

ジョイス・キャロル・オーツ『追跡』

わたしがジョイス・キャロル・オーツを好きな理由を表す一篇。この作家が、求めても顧みられない子供、愛されない子供、そして求めることを諦めた子供の視点、世界(その構築と崩壊)を描くときの筆致、吸引力は実に凄まじく、抗えない。映像的描写と内的心理描写によって、ナレーターと世界を同心円的に描いていき、どこまでが子供の魂でどこからが外界なのか、内と外の境界線を曖昧にしてしまう。読後に残るのが同情やノスタルジックな感情ではなく、後味の悪さだったり無力感なのも好きな理由。

 

エレン・クレイジャズ『七人の司書の館』同作家の、その他の作品も読みたくなった。あの頃本が大好きな子供だったひとならきっと、空想が止まらなくなる。本や知識自体は分け隔てないのだ。それを惜しみなく与えてもらえる環境ならば。けれどそれだけでは生きていけない。(それがなくても生きていけないのだけれど)

 

眩しくもない、可愛らしくもイノセントでもない、ありのままの「コドモノセカイ」。いまわたしのいるここ、地続きの「コドモノセカイ」。それが、とてもよかった。