ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

短編偏愛の日々その6<柴田元幸叢書 アメリカンマスターピース 古典篇>

短編偏愛モード、フェイズ・ワンも終盤か。短編を、数読むとなれば図書館利用が手っ取り早い。だが、図書館で借りた本は購入したそれとはまったく別物として扱わなければいけない。本を『手に取る』とその本を『読む』の間に、『積む』の介在が必要不可欠な体質なので、設定された期限までに読み終えようとすると、かなりのエネルギーを使う。まるで急き立てられているかのような物言いだけど、それもこれも『マスターピース』『古典篇』の二語を意識しすぎているからなの…自分でも分かってるの…。 ホーソーン『緋文字』とメルヴィル『白鯨』どちらも読めずに挫折したままなのである。英語が難しすぎてと言い訳していたけれど、なんのことはない、分からなさすぎて、つまらなかったのだ。そのホーソーンメルヴィルが収録されているので、尻に変な力が入ってしまう。しかし、返却日… 「読もう!」と手に取った自分の妙なアツさが、意味不明かつ重い…。

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

杞憂だった。ページをめくる手は止まらない。そこにあるのは、現代のわたしが読んできた短編たちと同じ河の流れだった。なにかが大きく変わっていたわけではなく、時が移り変わっただけだった。

我ながら驚いたのは、いちばんビリリときたのがメルヴィル『書写人バートルビー』だったこと。バートルビーは、まるで『第七の封印』の死のようでもあり、近代化、都市化が進む中で生まれた孤独の化身のようでもあり、虚無のようでもあり、ノーワン No one  であり、エブリワン Every one であり。

ヘンリー・ジェイムズ『本物』は、精巧緻密な映像的描写がどんどん積み重なってストーリーが進む。しかし同時に、余計なものはひとつも語られていない。言葉がたくさんあるのに、無駄がない。それが、読んでいてとても気持ちよかった。エミリー・ディキンソンの詩は、シンプルなのに何回読んでも読むたびに違う顔で、何度も何度も読んだ。もっと読みたくなって、岩波文庫の『ディキンソン詩集』をポチッ。そして、ジャック・ロンドン『火を熾す』。わたしは「極寒の地描写」への耐性が低い。はじまりはおそらく新田次郎アラスカ物語』で、フランク安田が極寒の地をひとりで彷徨うところが好きで好きで、何度読んだか知れない。それは、人間にとって脅威なのか自然のあるべき姿なのか。極寒の地における動作ひとつひとつ、その描写ひとつひとつ、説明できないことは、ない。すべてがシステマチックかつロジカルで、生きるために必要なこと。『火を熾す』の極寒描写、わたしの好みにドンピシャだった。

 

アンソロジーを読む楽しみのひとつに、編訳者あとがきがある。何度も読む。本編を読む前に、読んでいる途中に、読み終わったあとに。この本のあとがきもまた、その期待を裏切らないものだった。