ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

ジョイス・キャロル・オーツ『邪眼』

短編偏愛モードと呼ぶかジョイス・キャロル・オーツ偏愛モードと呼ぶべきか。擬音にしたら間違いなく「ガツガツ」になる。手が届くところに著作があればなんでも読みたい。これがオレの偏愛。Wikipediaによると数々の文学賞受賞歴と共に「ノーベル文学賞候補」であり「多作」な作家で、ピューリッツアー賞候補になった3作品を含む長い長い著作リストがある。読むのも積むのも大好きなわたしにとって、これは何にも勝る魅力。「一生かかって読み切れるのかしら(ワクワク)」とニヤニヤ緩みきった笑顔も引っ込む、邦訳作品リスト…。未訳、多くない?もっと!ジョイス・キャロル・オーツを、もっと!

邪眼: うまくいかない愛をめぐる4つの中篇

渇きのままに突っ走り、短編偏愛モードのしめくくりとして読んだ中編集。オーツ作品はどれも、開いたら最後「ビンジ」的に一気読みしてしまうのだが、本作も例に漏れず。ジョイス・キャロル・オーツの持つ「ジョイス・キャロル・オーツさ」の醍醐味は短編!だと今までは思っていた。『邪眼』を読んで、醍醐味は短編より中編くらいの長さのある作品で最も発揮されるのではないか、と思った。わたしにとってのジョイス・キャロル・オーツの持つ「ジョイス・キャロル・オーツさ」の醍醐味は、そのナラティブと手法にある。ここに収録された4つの作品は、どれも描かれるテーマがとてもパーソナル。作者にとってパーソナルという意味ではなく、作品が語られる視点がパーソナルなのだ。読者と語り手の間に想定以上の距離ができてしまうのではないかと思うと、ここでオーツの醍醐味炸裂。ストーリーをプロタゴニストの意識の流れに沿って展開させるのだ。プロタゴニストの意識や感情をビークルにして、時間(そして、ストーリー)という一方通行道路を走らせる。一人称でも三人称でも、オーツのその語り口は巧妙かつ自然。

 

読者を乗せて、ビークルは前進する。プロタゴニストに見える景色は読者にも見える。プロタゴニストに見えないものは読者にも見えない。見えないままにして、先へ先へと道をゆく。そして気がつくと景色は変わっている。見落としていた標識が、停止線が、ハイウェイの出口が、うっすらとした違和感が、実体を伴って現れる。もしくは現れない。どちらにしても引き込まれてページをめくる自分に気がついて「醍醐味!」となる。「すでに起きたこと」を語るのがストーリーなのに、それは追体験というより、プロタゴニストの意識に紛れ込んで「いま」を体験しているかのよう。

 

もうひとつ、わたしが「オーツさ」だと感じて偏愛するこの作家のスタイルは、「誰かの時間(生)の一部を切り取って見せる」こと。連続性。ページを開く前からその時間はもう既に始まっていて、そして小説の中で最後のピリオドを打たれたあとも、続いていく。この連続性、読む人にとっては「物足りない結末」かも知れないが、わたしにとっては、「閉じていないストーリー」なのだ。

 

4つの中編すべてにわたしの求める「オーツさ」が溢れる1冊だった。特に印象に残ったのは『処刑』。狭い、狭い、自分が整えた狭い世界の中心にいて、その世界の果て、その世界の際までいっぱいいっぱい、盛り上がりせり出さんばかりに 膨れ上がった自我と依存の図式が逆転したかのように見えて実は具現化しただけ、というのが「ビークル」に乗ってあちこちにぶつかりながら進んでいくのがおもしろかった。ただ「うまくいかない愛をめぐる4つの中編」という副題については、「あり」と「ううむ…」の間で揺れている。「うまい!」と膝を打ちたくなる気持ちと「必要?」と問いたくなる気持ち。両方あって揺れている。

 

短編偏愛モードは(ひとまず)終わったが、ジョイス・キャロル・オーツ偏愛モードはまだまだ続く。わたしの文章がシンボリックすぎるのは、オーツの文章も巧妙かつ自然にメタフォリカルだから。意味が分からない?それが偏愛なのようふふ。