ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

リディア・デイヴィス『話の終わり』

またもや、岸本佐知子さんの訳にお世話になっております。『2017最もボディにきいた本』暫定1位。短編偏愛のわたしとしては、同じ作家の手によるものでも、ノヴェル(長編)を読むときちょっと躊躇する。長編のところどころに「薄く引きのばされた」印象を受けてしまうことがあるからだ。「ショートストーリー(短編)とは、プロットではなく形である」のが、偏愛の理由。プロットのために膨らんだり薄くなったりせず、エッセンスだけがキュッと詰まった、それでいて余白の多い短編。リディア・デイヴィスの短編はまさにそれで、だからこそ好きだし、だからこそ長編読んでがっかりしたらイヤだなぁ…

話の終わり

…って、杞憂!!!最初から最後まで「なんじゃこりゃーー!!!」って(心の中で)叫びながら読んだ。なんじゃこりゃーー!!!連続するショートストーリーの形をしながら、長編として成り立っている。まるでノヴェルをプロットから解き放ったかのようだった。あまりにボディにききすぎて、下書きに下書きを重ねること20ページあまり。言いたいことがまったく言葉にならなくて、このまま灰になるかと思った。

 

リディア・デイヴィス『話の終わり』はタイトルが示す通り、話が終わったところがノヴェルの始まり。「話」と小説自体が入れ子になって、どちらも終わりを予知しながら終わりに向かって進む。まるで、すでに起きたことを預言するかのように。「話」は、「わたし」と「彼」の出会いから別れまでを語る。それだけなのに、叫びたくなるほどすごいのだ。

 

なにがすごいって、タイトルと小説と語りに見られるような、入れ子の構造、ひとつひとつの要素におけるバリエーションがすごい。

たとえば、「わたし」という要素。「話」において「彼」に対しての「わたし」がいる。そして、その「彼」と共に過ごした時間当時に「話」を書いている「わたし」がいる。「話」と「わたし」が時間と記憶、記録においていくつもの組み合わせで入れ子になっている。それを追うだけでも鏡像の内の鏡像の内の鏡像… さらにその上に現実でそれを書くリディア・デイヴィスがいて、そのリディア・デイヴィスには、執筆中のリディア・デイヴィスがいて… みたいな無限感があってわたしの中で「なんじゃこりゃーー!!!」のこだまが響く。

 

「わたし」と「彼」の描かれ方も、ノヴェルに見られるプロタゴニスト/アンタゴニスト、男/女、年長/年下、自/他… という二項の関係性ではない。「彼」は「わたし」が知覚、記憶、記録した「彼」なのだ。「彼」の形をとりながら、「彼」というプロットは見当たらない。等しく、「わたし」も「わたし」が覚えている「わたし」であって、「彼」や「世界」から見た「わたし」なのかどうかはわからない。なんじゃこりゃーー!!!

 

時間と記憶と記録。忘れるということ。これも繰り返し繰り返し出てくる。今の「わたし」はその頃の「わたし」が残した記憶と記録を元に起きた「話」を語り直そうとする。しかし、「忘れてしまう」のだ。今の「わたし」とその頃の「わたし」の、記憶と記録のズレ。忘れてしまって思い出せない。これは今の「わたし」が何度も繰り返して触れることで、ある出来事について肝心なことを覚えていたり忘れていたり、いくつかのバラバラに起きた別の出来事を知らずに繋いでひとつの出来事として記憶している。そのくせ飲んだワインの匂いや肌で感じた日差しの強さなんていう、取るに足らないようなことを覚えていたりする。記憶と記録の中に記憶と記録があり、そこに時間という不可逆的要素が足され、ある「世界」が姿を現わす。それは「わたし」に知覚されて顕在化する「世界」で、同時に「わたし」はその内に存在する。また、不可逆的要素である時間でさえ、「世界」であり「話」のなかで、記憶と記録、忘れるという動きによって可塑性が与えられる。なんじゃこりゃーー!!!

 

知覚情報が処理され、一時的に短期記憶域に収納されたあと、なにかが刈り込まれ、なにかが捨てられて、長期記憶となる。廃棄された記憶は、なんだったのか。作品全体を覆うテーマに小説(フィクション)とは、作家とは、語りとは、記憶とは、記録とは、時間とは、歴史とは… とこれが「話」と入れ子になっている。なんじゃこりゃーー!!!

 

薄く引きのばされたところなんてひとつもなく、漣がいくつもいくつも寄せてくるように展く。ノヴェルでさえプロットから解き放つかのような、自由で余白の多い作品だった。ボディにブロウをくらうたびに鳥肌立てながら「なんじゃこりゃーー!!!」って叫ぶ、そんな読書体験だった。岸本佐知子さんの選ぶ(訳す)作品もまた、然り。