ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

ボディにきた本2017

継続を迷っていた、この読書感想ブログ。素人の書評と受け止められると、意図してた方向性と違うんだな… 悩む。その間も読書というインプットは続いて、読むたびにああでもないこうでもないと色々こね回す。でもね、そこに「書く」つまり形にするプロセスがくっついてこないと、こね回しているものがどんどん溜まって澱んでいくんですよ。入れたものは出してかないと具合がよろしくないんだなと思った。批評も推薦もしない、ただの読書感想文ですが、読んでくれる人たちがいると単純に嬉しい。もう少し続けてみようかな、と。

 

さて。

いまさらながら、2017年を振り返る。2017最もボディにきた作品。

リディア・デイヴィス『話の終わり』

ゼイディー・スミス『美について』

ニコルソン・ベイカー『中二階』

ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』

 

リディア・デイヴィスは、もう、アレよ。びっくりしちゃって震えた。それについてはこのブログですでにギャーギャー騒いだあとなので割愛。ボディにきた作品は読後の高揚感だけでガガガと書くんだけど、それから何度も頭の中で反芻する。そこにドナルド・キーン『百代の過客』を読んでハッとした。これは日記文学なんだ。記憶が濾過した徒然を綴っている。記録と記憶の正確さではなく、誰かの目に触れることを前提として、作者が残したいこと、読ませたいことを意図的に綴った作品なんだ。それを緻密な足し算引き算の上に作りあげたわけですね。原語だと話しことばをそのまま書き留めたような語りで、わたしが岸本佐知子さんの訳を偏愛する理由のひとつが原語の語りをそのまま日本語に写してる(移すのでなく、写す)ところ。つまり、この作品も『紫式部日記』や『更級日記』みたいなもの。仮名で書かれた日記調の小説なのだ。ボディブローすごい。リディア・デイヴィス、リスペクト。

 『美について』は想定外に揺さぶられましたねぇ。好みの作品ではないし、分厚いから途中で飽きると決めつけていたので、他の作品より揺さぶられ方が大きかった。あまりに揺さぶられた結果、勢い余ってフォスター『ハワーズ・エンド』を読んだくらい。『ハワーズ・エンド』は英風俗小説というジャンルだと解説にあった。『美について』は『ハワーズ・エンド』へのオマージュかと思いきや、『ハワーズ・エンド』みはあるんだけど、それ以上。現代の風俗って、ここまで多様なのか!可能性とか新しいとか、そういうのではなくて、わたしが知ろうとしなかった現実を言語化しているに過ぎない。作品の持つパワーと共に、己の無知にきっついボディブローを食らった。

ニコルソン・ベイカー『中二階』は、秒単位(もしくはそれ以下)でどこまでも拡大されていくコスモスにボディをキメられた作品。自分が小さくなったんだか大きくなったんだか分からなくなる。お昼ご飯食べに出て、切れちゃった靴紐を買って、自分の職場に戻るためにエスカレーターに乗るまでの間の話。話って呼べるの?語り手の趣くまま、記憶と思考を彷徨うだけなんだけど、それがひとつのミクロコスモスになっている。顕微鏡の中の世界の中の世界の中の世界…って最後に行き着いた感想は「クマムシ…」だった。 大きな主題?小さな主題?プロット?なにそれ?解き放って、自由に、好きにやっちゃおうぜ。ちっちゃなちっちゃな世界からのメガボディブロー。クマムシ&フリーダム&フォーエヴァー。

ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』も、やっぱり記憶と語りの話。この小説のブローは、じわじわと長く続いた。誰かと繋がっていたのは一瞬で、それは必ず終わるもの。孤独を乗り越えたらそこには孤独しかなかった。けれど物語は灯台のようにわたしたちの行く海を照らす。ならば灯台守になろう。詩人の吟じる詩を聴いてるような小説だった。センチメンタルポエムみたいな感想になっちゃった。

 

お気づきかも知れないが、ボディーにきた四作品のうち三作は、岸本佐知子さんの訳。偏愛。