ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

岸本佐知子編『変愛小説集 日本作家編』

葉桜の頃。暮らしのあたらしいリズム。起きて動いて寝て、また起きる。明日繰り返す今日。シンプルで難しいこと。

岸本佐知子さんの編訳偏愛。アンソロジーは「そう!これが読みたかった!」な短編ばかり。訳も編も、読むたびに岸本さんの引き出しの多さに驚く。ページを開いて最初の二行くらい読むと「ぎゃ!好き!」。たくさんもらって、たくさんもってかれて、読み終わるとしばらくは「なんも言えねえ」ので、この中からどれかひとつ(もしくはふたつ、もしくはみっつ)を選ぶのが難しい。ころんとしたガラスの瓶に入った色とりどりのゼリービーンズみたい。どれもキラキラして、美味しくて、どれから食べてもいい。

『変愛小説集』シリーズを読むのは、これで3冊目。今回は日本作家編。いつもの通り、どのゼリービーンズがいちばん好きか、選べない。いや、ほんとに。ひとつ(あるいはふたつ、あるいはみっつ)だけなんて。ひとつひとつが「変」で「愛」。

ちょうど多和田葉子祭開催中なので、多和田葉子「韋駄天どこまでも』はタイムリー。この作家が、計算的に、でも継ぎ目なく滑らかに、言葉を視覚的に使って物語を立ち上げるところが、とても好き。嗅覚にも味覚にも触覚にも作用して、頭も体も物語に同調する高揚がある。

川上弘美『形見』は静かな水面のよう。この作家の想像力はこちらの予想をグンと超えてくる。

最初にこの二編でぎゅっと掴まれて、そのまま。変だよー、愛かよー、愛じゃん、しかも純愛じゃーん。

吉田篤弘(『ドフトエスキーを読まない』人たちのひとり)『梯子の上から世界は何度だって生まれ変わる』は、淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びして久しくとどまることなし。よく引用するよね。『方丈記』好きか。終末が永遠。泣いちゃった一編。

深堀骨『逆毛のトメ』、わたしが自発的に読むことはない種類の作品。でも、すごい好き。『異形の愛』だね。音読した時の調子が心地良い文章。のどごし、つるつる。蕎麦か。

安藤桃子『カウンターイルミネーション』一瞬の光。世界が色褪せる。本谷有希子『藁の天』まとまりながら崩れる。村田沙耶香『トリプル』愛は愛。吉田知子『ほくろ毛』自分の一部なのにコントロールできない。木下古栗『天使たちの野合』読み手をどこへ連れていく?小池昌代『男鹿』どこまでも歩いていける、自分の足に合った靴。小野智幸『クエルボ』卵がもたらす未知。津島佑子『ニューヨーク、ニューヨーク』わたしは世界より大きい。

ほらやっぱりどれかひとつ(ふたつ、みっつ)選べない。キラキラ輝くゼリービーンズ。変な愛。愛は変。そして、愛は偏。『変愛小説集』を読めば、岸本さんの偏愛する小説たちが、わたしの偏愛する小説たちになる。

スティーヴン・ミルハウザー『夜の姉妹団』

スティーヴン・ミルハウザーは、難しい!岸本佐知子さん訳『エドウィン・マルハウス』を読んでいる最中、何度も感じた。原文も訳文も、どちらかと言えばシンプルな文体。映像的で美しく、独特のリズムがある。だけど難しいんだよ、ミルハウザー。難しさは、描写の美しさを追っているだけなのに、それで読解できていると勘違いさせられてしまうところ。

夜の姉妹団―とびきりの現代英米小説14篇

エドウィン・マルハウス』の難解さに熟成棚に戻したわたし、ここは短編から入り直してもいいのでは?Twitterで見かける『夜の姉妹団』人気に乗っかってみた。同作が別途収録されているミルハウザー短編集『ナイフ投げ師』も手元にあるのだが、今回読んだのはタイムラインの皆さんが読んでいた、柴田元幸さん編訳アンソロジー。表題作として『夜の姉妹団』が収録されている。「環境や条件の違いは、読後の印象や感想にも影響があるのでは?」と考えて、手元にあるものではなくあえてこの絶版。今回も図書館が強い味方になってくれた。

 

さて。イントロダクションの部分ですでに眉がグイッと寄る。え?これはシスターフッドがテーマなの?いや、シスターフッドの話では、ある。彼女たちは自分たちの持てる知識と行動力を発揮して、沈黙を貫く規律を徹底する秘密結社のようなものを結成した。会員からの内部告発でそれは明るみに出、周りの大人たちの大騒ぎに発展していく話なんだけど… ここですでに「ミルハウザー難しい!」が発動。メタすぎる。シスターフッド、抑圧などの感想を目にしたが、わたしが真っ先に思い浮かべたのは新大陸でのピューリタンによるクエーカー教徒迫害だった。ここでは、周りの大人たちがピューリタンであり、姉妹団がクエーカーである。絶対平和主義者であるクエーカーは、抑圧という暴力に屈するではなく、沈黙で応じる。『るつぼ』に見られるような告発もない。ただただ、自分たちの信じたやり方を貫く。これが、ひとつ。

言葉で表現することの限界、これがまたひとつ。書き手と作品、読み手。そこに生じる乖離。言葉にされることで作者の手を離れ、読者のものになってしまう作品。作品を通して語るというのは、ミルハウザーにとっては沈黙と同義と受け止めざるを得ない?

マジョリティによるマイノリティ排除、支配被支配者、搾取被搾取、女性蔑視… 次から次へと出てくる出てくる。具沢山シチューのシスターフッド包みですね。包みだけを味わうより、くずしてシチューと一緒に食べると美味しい。これが難しいと感じる理由かな。そこで満足しちゃうともったいない、でもそのままで十分美味しい。

読了メモ・2017.10

 

どんどんいくよぉ!今3月だからさ。まだまだ!…って書いたままになってて、そして4月… しっかりしろ!!読書メモと一緒に、当時のことを色々思い出した。

 

ハワーズ・エンド

E.M.フォースター

「英国風俗小説」というカテゴリーがあるそうだ。『ハワーズ・エンド』はこのカテゴリーとのこと。『美について』の感想を、自分なりにもう少し掘り下げられたらいいなと読んだので、これまた事前期待値があまり高くなかった。ノット・フォー・ミー案件だと思ってたら、わたしはこういうのが好きだってことが分かった。

 

アイスランドへの旅』

ウィリアム・モリス

そう、あのウィリアム・モリス。憧れの地アイスランドへ行きて帰りし2ヶ月余のモリスさん聖地詣日誌。サーガを愛するモリスさん、「ここでニャールサーガのグンナルが!」「蛇舌のグンラウグが!」「めんどりのソーリルの!」アイスランドの自然は厳しく道は険しくつらい旅だったろうに、終始テンション高めかつ情熱たっぷり。

とにかくモリスさんの映像的描写がさいこうのアイスランド紀行文。パンビジョンがすごい。180度見渡して、それを緻密に文章で再現。映像と詩が同時に存在する。観察力もさることながら、モリスさんの記憶力がすごい。毎晩、就寝前にその日の記録をある程度まとめていたそうだけど、目にしたものをよくここまで覚えているものだと感心する。

旅の始まりからモリスさんがやたらと落し物、失くし物をする。後から来る知らない人が拾って届けてくれるのもいい(そしてモリスさんのご機嫌がよくなる)。あるとき、日誌やら「これだけは失くしたくない」ものが入っていたリュックを別の人に預けていたら、その人がリュックを失くしてしまう。激しい嵐に巻き込まれたせいなのに、疲れもあってついその人を「殺してやる!」と強く脅してしまうモリスさん。その人が来た道を戻り、3時間かけてリュックを見つけてきてくれたら、「ほんとにごめんね、ありがとう、ほんとにごめんね」とめっちゃ謝罪(そしてそれをちゃんと日誌に書いといたりする)。

大好きなアイスランドを巡ってテンション高めと思いきや「白状すると」と言い置いて「ほんとは泣きそうだった」と日誌につらい気持ちを吐露しちゃうモリスさん。筆者の心情吐露は紀行文のおいしさ。がんばれぼくらのモリスさん!

アイスランドに夢中になる一方で、やたらめったらシラミに怯えている。行く先々で宿を提供してもらうんだけど、「屋根と壁にちゃんと苔を使っているのでこのうちはまあまあだな」と納得するかと思いきや、寝床を見て「絶対シラミいる!やだ!」と心の中で騒ぐ。でもモリスさん、実際にはあんまりシラミの被害にはあっていなかったようだ。

新しく雇ったガイド、「顔が獰猛だから」と言い放ち、嬉々として「不潔狼」とあだ名をつけるモリスさん(不潔狼、実際は穏やかでいい人だったらしい)。テントを張って自炊しなきゃいけない時もあって「実はオレには隠れた料理の才能が」と得意げに日誌に書き込むモリスさん。憧れのギャウ、息も切れ切れに上って「厚着してるしブーツがさ」と言い訳したら、同行してくれた牧師さんに「それに太ってますからね」と返されて「ギャフン!」なモリスさん。

読後にモリスさんの後を追って画像検索したら「1800年代前半に、よくもこんなとこを、馬とポニーだけで!」と驚くほどの険しい土地。気候風景だけでなく、睡眠や食事、出会った人々をモリスさんはとても鮮やかに描いている。とにかく風景描写の美しさ、鋭い観察力と豊かな表現力、そして何よりちょいちょい出てくる素のモリスさんが良き。こんなに長く書いたのは、いちばん好きと言える紀行文に出会ったからだと思う。

 

『百年文庫・灰』

中島敦石川淳島尾敏雄

近現代日本文学のクラスで読んだ作家3人だ、と懐かしくなって。三人三様、それぞれの視点からの戦争、生死感。

 

『百年文庫・罪』

ツヴァイク魯迅トルストイツヴァイク『第三の鳩の物語』はあまりわたしの好みではなかった。魯迅『小さな出来事』は好み。意外にもトルストイ『神父セルギイ』がいちばん好みだった。『アンナ・カレーニナ』積んでるのに。

 

『ゴールドフィンチ』1〜4

ドナ・タート

友人に熱く熱く薦められた。「ここからどうなっちゃうの?!」と、次の展開が読めなくて終始不安。どこに向かっているのか、全然予想がつかない。画家の筆が走るまま、その動きを追っていく。そしたら最後に絵が現れた。そんな印象。熱量は最後まで衰えない。ハッとするような一文に出会う頻度が高い。舞台転換が豪快。静と動のコントラストが効いている。美しく美しく綴られた、おつらみの連続。子供の無力感、喪失を引きずって生きていくこと。つらいんだけど、やめられない。美しくて、脆くて、儚くて、美しい。美しいって何回言ってる?

 

『たのしいムーミン一家』

トーヴェ・ヤンソン

岸本佐知子さんのインタビュー記事を読んだのがきっかけで、トーヴェ・ヤンソン祭りが始まった。子供の頃夢中になって読んだお話を再読するって、難しいなと改めて思った。違う角度から見えそうで見えないものをつかもうとすると、子供のわたしが邪魔をする。トフスランとビフスラン、飛行おにがお気に入りなのは変わらなかった。

 

『島暮らしの記録』

トーヴェ・ヤンソン

なんでそこまでしてわざわざそこに住む?が素直な感想。自分たちだけの世界を作るというのは、大変な作業だな。隠棲を隠棲をと求めていくうちに、海に浮かぶ岩だらけの島、っていうかでっかい岩、に小屋を建てて住むヤンソンさんたち。どこからが事実でどこからがフィクションだか分からないけど、少なくともこれは島じゃなく岩だね。ヤンソンさんは風力階級が大好きらしく、ビューフォート階級という言葉がたくさん出てくる。ビューフォート3、まだ平気。ビューフォート7!やばい!

海に浮かぶでっかい岩に小屋を建てて暮らすとどれだけの風が吹くかで生死が決まるのだろう。わたしはビューフォート階級を気にしたことがないのでピンとこないけど。ボートでの移動。小屋を建てるために地ならし。必要最低限の電力のための蓄電器の起動。風雨、波、岩。海、海、海。そしてボートに乗って、また街に帰る。サバイバルめいたバカンス。めっちゃ不便な場所には自分たちだけの世界を作ることができて、めっちゃ不便な場所には居心地のいい沈黙がある。次第に共に過ごすことを疑問に思うような沈黙。夜の海に吸い込まれていく沈黙。

 

『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界』

冨原眞弓

そもそも記事の中で岸本佐知子さんが取り上げていた一冊。持病の「カタカナの地名&ヨーロッパの地理分からない」を発症して、読了までに時間がかかったけど、読んでよかった。フィンランド史、対スウェーデン、ロシア=ソヴィエト、ドイツ。トーヴェの母シグネの個人史、ヤンソン家の歴史、トーヴェの個人史、諷刺雑誌『ガルム』の歴史。読んでよかった。外国の人は日本のことを分かってない、誤解しているというのをよく見聞きするけど、わたしも北欧のこと分かってなかった。みんなは分かってるの?まだまだ知らないことがあるって、楽しい。

 

11冊。制限がある方が読書にこだわるようだ。

読了メモ・2017.09

「ブログ記事をひとつ追加した」という小さな達成感を得るために書き始めた読了メモ。去年9月分から滞っているとは、どういうことだ。

 

『いずれは死ぬ身』

柴田元幸編訳

「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中のある人とすみかと、またかくのごとし」浮世のうたかた、いずれは死ぬ身。ブリーズ・’DJ・パンケーク(ふざけた感じがするけどほんとにこれがペンネーム)『冬のはじまる日』冬の風、低く灰色の空、雪のにおい。寒さが感じられる一編。ウィリアム・バロウズ『ジャンキーのクリスマス』言わずもがなの『キル・ユア・ダーリン』案件。『そしてカバたちはタンクで茹で死に』では予兆として描かれていたものが現れたような一編。

 

高山右近とその時代』

川村信三

はい、偏愛。多くは語りません。高山右近のイメージは禁教後江戸時代のものが根強く残っているし、『信長の野望』ではそんなに選ばれないキャラでしょ?我らがユスト高山右近茶の湯の世界でもそれと知られた人物で、勇猛果敢な戦国武将なのよ。ちなみに、息子の夏休みの宿題『好きな戦国武将』で高山右近を選んでくれたら代わりにやると鼻息荒く申し出たのは、もちろんわたしです。

 

『ずっとお城で暮らしてる』

シャーリィ・ジャクスン

深緑野分さんオススメの一冊。ふらりと書店に入って予定外に買ってしまった。ミステリー仕立てで、あちこちにたくさん伏線が張られていき、クライマックスでその全てが回収され、あとになんとも言えないものが残る。無条件の愛と孤独と悲しさと。深緑さんの『戦場のコックたち』と合わせて読むと倍の倍楽しめる作品。衝動買いしてよかった。

 

『ヨーロッパ文化と日本文化』

ルイス・フロイス

はい、偏愛。『フロイス日本史』でちょいちょい顔を出す、わたしの好きなフロイス。自身のものと色々な人から集めた見聞録。当時の人々の衣食住から道の歩き方、酒宴での作法、価値観などが記録されている。偏見、誤解、誇張などを差し引いても、ルネサンス時代のヨーロッパから来日した知識人の手による紀行文として読んだらおもしろかった。「えーー?」って眉をひそめることが多かったのは「日本文化」について書かれたもの。偏愛案件なので、多くは語らない。

 

『パイド・パイパー』

これまた深緑野分さんオススメ。ちょうど映画『ダンケルク』を観た後だったので、興味がそっちを向いていたというのもある。どっち方向だ。主人公ハワード氏は『ダンケルク』ドーソン氏と重なる部分がたくさんある。「ハワード氏が縁もゆかりもない子供達を連れて逃げる」話。おとぎ話のように語られるけれど、戦争ものが苦手なので(だけど読む)そこここで怖くなって本を閉じた。おとぎ話のようでいて子供の無邪気さを隠れ蓑にしていないところが良かった。最初から最後まで、日常が戦争に侵されていく緊迫感。それでも「人間は戦争より大きい』のだ。さすが、深緑セレクト。

 

『氷の花たば』

アリソン・アトリー

『時の旅人』がとても良かったので、図書館で見かけて読みたくなった。『時の旅人』にあった骨太な部分と柔らかい風景描写、後者が詰まった小さいおとぎ話集。風景とおはなしが溶け合っていた。

 

『美について』

ゼイディー・スミス

別途記事を書いたので詳細省略。とにかくガツンときた作品だったのは、何度でも言いたい。「ノット・フォー・ミー」だろうという事前期待も手伝って、重いブロウを食らった。実のところ、今でもこれはノット・フォー・ミーだと思う。だからと言って読めないわけではないし、楽しめないわけでもない。偏愛と同時に開くのもまた良し。学んだ。

 

 7冊。少ない。でも暑い暑い具合悪いと言ってたわりには、よく読んだ。

 

ボディにきた本2017

継続を迷っていた、この読書感想ブログ。素人の書評と受け止められると、意図してた方向性と違うんだな… 悩む。その間も読書というインプットは続いて、読むたびにああでもないこうでもないと色々こね回す。でもね、そこに「書く」つまり形にするプロセスがくっついてこないと、こね回しているものがどんどん溜まって澱んでいくんですよ。入れたものは出してかないと具合がよろしくないんだなと思った。批評も推薦もしない、ただの読書感想文ですが、読んでくれる人たちがいると単純に嬉しい。もう少し続けてみようかな、と。

 

さて。

いまさらながら、2017年を振り返る。2017最もボディにきた作品。

リディア・デイヴィス『話の終わり』

ゼイディー・スミス『美について』

ニコルソン・ベイカー『中二階』

ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』

 

リディア・デイヴィスは、もう、アレよ。びっくりしちゃって震えた。それについてはこのブログですでにギャーギャー騒いだあとなので割愛。ボディにきた作品は読後の高揚感だけでガガガと書くんだけど、それから何度も頭の中で反芻する。そこにドナルド・キーン『百代の過客』を読んでハッとした。これは日記文学なんだ。記憶が濾過した徒然を綴っている。記録と記憶の正確さではなく、誰かの目に触れることを前提として、作者が残したいこと、読ませたいことを意図的に綴った作品なんだ。それを緻密な足し算引き算の上に作りあげたわけですね。原語だと話しことばをそのまま書き留めたような語りで、わたしが岸本佐知子さんの訳を偏愛する理由のひとつが原語の語りをそのまま日本語に写してる(移すのでなく、写す)ところ。つまり、この作品も『紫式部日記』や『更級日記』みたいなもの。仮名で書かれた日記調の小説なのだ。ボディブローすごい。リディア・デイヴィス、リスペクト。

 『美について』は想定外に揺さぶられましたねぇ。好みの作品ではないし、分厚いから途中で飽きると決めつけていたので、他の作品より揺さぶられ方が大きかった。あまりに揺さぶられた結果、勢い余ってフォスター『ハワーズ・エンド』を読んだくらい。『ハワーズ・エンド』は英風俗小説というジャンルだと解説にあった。『美について』は『ハワーズ・エンド』へのオマージュかと思いきや、『ハワーズ・エンド』みはあるんだけど、それ以上。現代の風俗って、ここまで多様なのか!可能性とか新しいとか、そういうのではなくて、わたしが知ろうとしなかった現実を言語化しているに過ぎない。作品の持つパワーと共に、己の無知にきっついボディブローを食らった。

ニコルソン・ベイカー『中二階』は、秒単位(もしくはそれ以下)でどこまでも拡大されていくコスモスにボディをキメられた作品。自分が小さくなったんだか大きくなったんだか分からなくなる。お昼ご飯食べに出て、切れちゃった靴紐を買って、自分の職場に戻るためにエスカレーターに乗るまでの間の話。話って呼べるの?語り手の趣くまま、記憶と思考を彷徨うだけなんだけど、それがひとつのミクロコスモスになっている。顕微鏡の中の世界の中の世界の中の世界…って最後に行き着いた感想は「クマムシ…」だった。 大きな主題?小さな主題?プロット?なにそれ?解き放って、自由に、好きにやっちゃおうぜ。ちっちゃなちっちゃな世界からのメガボディブロー。クマムシ&フリーダム&フォーエヴァー。

ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』も、やっぱり記憶と語りの話。この小説のブローは、じわじわと長く続いた。誰かと繋がっていたのは一瞬で、それは必ず終わるもの。孤独を乗り越えたらそこには孤独しかなかった。けれど物語は灯台のようにわたしたちの行く海を照らす。ならば灯台守になろう。詩人の吟じる詩を聴いてるような小説だった。センチメンタルポエムみたいな感想になっちゃった。

 

お気づきかも知れないが、ボディーにきた四作品のうち三作は、岸本佐知子さんの訳。偏愛。

消えていく点が、ひとつ

家父長の化身のような生き方をしてきた人が持病の発作を起こし、短期入院をした。退院は自宅でそのときを待つという意味らしく、帰宅してこう言った。「あとは好きなことだけをして、人生を全うする」と。口にはしなかったが内心は「いやいやいや、あのさ。いままでも散々好きなことだけしてきたから。何を今更」である。馬耳東風な心持ちで、その人が自分の来し方を振り返る問わず語りを聞いていた。すると「自分はいままで男としての務めを果たすために生きてきた。これからはその責任から解放されたい。好きなことをしたい」と言うので、びっくりした。この人は、ほんとうに、なんの疑いもなく、そう信じて生きてきたのだ!いつも定位置に不動、家族であっても女性を蔑み、罵倒し、自分の経済力をもって縛り付け、誰彼構わず好き勝手な物差しで評価して見下し、聞きたくないことには耳を貸さず、そのくせ自分の言いたいことは相手の言葉を遮ってまで言い切る(そしてそれは大抵の場合、無礼で思いやりにかけ、相手を傷つけるために振り回される刃物のような言葉だったりする)が、一方で自分の下着がどこに収納されているのかまったく分からない、まさに「家父長」という言葉の表すところそのままの言動。何度となくわたしたちを傷つけてきたその言動は、わたしたちのために自分の人生を捧げ責任を果たした結果である、それこそが家父長である自分の責務である、とその人は心の底から、まっすぐに、そう信じているのだ。そうか。それは彼にとっては正義だったのだ。好き勝手など、なにひとつしてこなかった。常に家父長らしくあることが、家族のためであると信じて生きてきたのだ。なんという内面化。なんという無自覚。分かっていたつもりでも、実際に本人の口から出たその言葉を聞いて、とにかくわたしは驚いた。

ところが、わたしの驚きはだんだんとさみしさに変わっていった。わたしはとてもさみしかった。なんてさみしいことだろう。わたしが感じているこのさみしさを、言葉にするのはとても難しい。でも、わたしはいまとてもさみしいのだ。分かり合えないからさみしいのではない。そんなもの、相手が誰であってもほんとうに分かり合えることなんて、そうそうない。分かり合えないことがさみしさではないのだ。

わたしたちは、点だ。空間にぷかぷか浮かぶ点。くっついたり、離れたり。ひとつになることはなくても、わたしたちという点と点が偶然にくっつくその瞬間を、共有することができる。共有から、点と点の間に細い線が生まれる。またくっついたり離れたりしながら線を増やして、わたしたち点は、漂う。わたしには偶然のもたらすその瞬間がとても大切だ。

けれどその人とわたしは、それぞれが透明な壁越しに相手を見ていただけだった。どんなに声をあげても手足を振り回して訴えても、わたしが発するものは、彼には届かない。だから同じ空間に浮かぶわたしたちという点と点がくっついたように見えただけで、実際はなにも起きなかった。昔はこの壁に行き当たるたびに、怒りを覚えた。なぜこの壁に気がつかないのか。互いに同じ点、それ以上でもそれ以下でもない、皆同じ、ただの点、であることを分かろうとかしないのか。怒っていた。年齢を重ねるうちに、怒りは諦めに変わった。そしていまは、それがさみしさになった。とてもとてもさみしい。わたしたちは皆、いつかここから消えていく点。みな同じ点なのだ。消えていくこと自体にはあまりさみしさを感じない。そういうものだ。わたしたちは、いつか皆消えていく。同じ空間に在って、漂いながら、偶然なにかを共有できるかもしれない幸運に恵まれることもある。なのにわたしとその人というふたつの点は、透明な壁に阻まれて互いの声さえ聞こえない。そして点がひとつ、消えようとしている。それが、とてもとてもさみしい。怒りも諦めもない。とても、さみしい。

そんなきもち

たまに自分で自分のブログを読んで、振り返る。基本的に「そのときに読んで感じたこと」を書いているので、後日読むと「あちゃー」ってところがたくさんある。まあ、恥ずかしい。ただ、「そこんとこ見直して今後に応用できればいいよねー」くらいに留めておいて、あまり執着しないようにしている。

ここに書いてあるのはどれも、読書の感想で、わたしがなにかをジャッジしようとするものではない。たとえばフランシス・ハーディング『嘘の木』を読んで、「人生は闘いなのよ!女も闘っているのよ!」というのが、わたしが人生に対して下したジャッジメントかというと、そんなこともない。いや、そう感じたことがあるから、読んだものに誘われてそのことを思い出したりする。かと言ってそれがわたしの持つ、人生に対しての揺るがない考えかというと、そうでもない。

本を読んで色々思い出したり考えたり、思考や記憶が小さいながらも点を打つ。それがどうやって繋がっていくのかは自分でも予想できないんだけど、生きているうちにたくさん本を読んで、たくさん点を打てたら楽しいだろうな。そんなきもち。