ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

アリス・マンロー『イラクサ』

『2016年最もボディにきいた本』堂々の1位、アリス・マンローイラクサ』。打ち込まれるパンチの重さに頭が痺れて、めまいがした。途中で何度読む手を止めて、本を閉じたか。俺ァ燃え尽きそうだったんだよ、おやっさん…

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

アリス・マンローイラクサ』は、九編収録の短編集。何が起きるか、というとドラマティックなことは、特に何も起きない。それが全編の共通点。記憶と時間、縦糸と横糸が交差した織り目が「いまいるところ」まで辿り着く、それだけなのに、メガトン級のボディブロウ。

 

余計なものはすべて削ぎ落とされたシンプルな文章。語られるのは主人公の物語。ある瞬間、さざなみが広がっていくように、彼女たちに訪れるエピファニー。主人公の中でなにかが変わるその瞬間。それをクライマックスとして、話が始まり、そして終わる。エピファニーはどれで、エピファニーの前と後、何が違うのか。読み手が時間や精神をinvest/費やさないとうっかり読み落としてしまいそうなほどの細密さ。マンローの描くその「変化」は「静」にとても近い「動」。

 

それまでジワジワときいていたボディブロウが急所のど真ん中にガツンと命中した一編が『ポスト・アンド・ビーム』。これはすごかった。あまりの衝撃に頭が痺れてめまいがして、吐きそうになったくらい、すごかった。「ポスト」つまり柱と「ビーム」梁というタイトルのこの作品は、主人公の人生がなにを支えてきたのか、なにを支えとしてきたのか。柱と梁とはなんだったのか。ストーリーとしては、それに尽きる。それだけなのに、重い。この話の中ではエピファニー/クライマックスが、ある一文に凝縮されている。しかし、わたしがクライマックスだと感じたその一文に対する、書き手の手離し方が、すごいアッサリしていた。そのアッサリ感こそが、急所ど真ん中に命中する一発だった。静に近い動であるエピファニーとその後。変化は、時を経て余計なものが削ぎ落とされ、いまは主人公の記憶をふわりと覆う薄衣。そんな描き方だった。

 

わたしにとってのマンロー、なにがそんなに重くて衝撃的だったのか。マンローが語るのは、カナダのどこかの街に住む、とある女性の話。そこには、緻密な計算を元に造られた構造物(であるはずのもの)が、自然かつ有機的に「とある街のとある女性の話」に組み込まれている。語られる話はすべて、主人公の視点、主人公の記憶に基づくもの。それが記憶として保存される時点においては、とても主観的で偏っている。のちに、つまり彼女たちによって語られる時点には、あるものは主観的なまま、あるものは客体となって見つめ直される。ただ、どの時点においても、話の元になるのは記憶であり、事実ではない(かもしれない)。そして、記憶が語られ再構築される時点においても、それはやはり記憶であって、事実ではない(かもしれない)。ここでマンローが語っているのは、とある女性の話だあると同時に小説とは、フィクションとはなにか、ということ。それは必ずしも事実を語るものではない。だからと言って、記憶自体が生のままかというと、そうでもない。事実と記憶、それが複雑に入り混じり干渉しあいながら、記録されている。そしてその記録が彼女たちだけのエピファニーを真実に変える。そこに小説が成立する。マンローは、主人公を通して、彼女たちの記憶を記録し直し語りながら、小説とはなにか、フィクションとはなにかを語っているのだ。ぎゃー!!メタ!!

 

ちなみにわたしは、メタフィクションとかメタファーとか、とにかく頭にメタが付くものを読み解くのが、もンのすごく苦手。メタが付くものを、小説を読む楽しみとして味わった経験があまりない。課題として、読む。その程度だった。そんなわたしにも、マンローのボディブロウは重かった。きっと、苦手なメタが自然に有機的に、それとは気づかず見逃してしまいそうなくらい細やかに、美味しいストーリーに組み込まれているから、なのではないかしら… 食欲に例えると(誰よりもまず自分にとって)とてもわかりやすい。

 

『ポスト・アンド・ビーム』のボディブロウがききすぎて燃え尽きてしまいそうだったので、しばらくはマンロー作品に手が出せないなと思った2016年末の記録。