ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

ジョイス・キャロル・オーツ『二つ、三ついいわすれたこと』

年明けてた!こわい!絶賛下書き保存中状態のものがいくつかあるまま、年越し!こわい!って、年明けて早々ブログ更新していたことを忘れている!こわい!それよりなにより、このこわさが通常運転状態なのが、いちばんこわい!

 

考えがまとまらなかったりフリックがうまくできなくなってきて誤字脱字が多くなってきた、そんな酉年。いや、干支のせいじゃない。これまで何度かアドバイスをもらっていた音声入力も視野に入れつつ、2017も続くジョイス・キャロル・オーツ偏愛。

二つ、三ついいわすれたこと (STAMP BOOKS)

そもそも、未邦訳の多いオーツ作品。邦訳されているものの内いくつかは、なぜかYA。しれっとザクザク抉ってくるオーツが、10代向けに描く物語とは…?手加減してくるか?初手からお構いなしだった。関係なかった。YAとか、ジャンル分けとか、オーツ先生には、まったく関係なかった。物語の設定や登場人物はたしかにYAベースだけど、情け容赦ない抉りっぷりは、いつものオーツだった。

 

物語は『あのこと』から始まる。『あのこと』… ティンクがこの世からいなくなってしまったこと。風変わりで型破りで、カリスマティックなティンク。『あのこと』でティンクを失った痛みをきっかけにどんどん浮き上がる、ティンクの友人メリッサやナディア、それぞれが抱える痛みや傷、生きづらさ。『あのこと』が起きる前、記憶の中に浮き上がるティンク自身の痛みや傷、生きづらさが重ねられて、オーツ先生はグッサグサ抉りまくる。

 

生きづらさのひとつに、『自分が自分でいなければならないこと』がある。いまの自分でいるしかない。この自分のまま、生きていかなければならない。自分であること、それ自体が生きづらさ。加えて、自分には選択肢がなかったこと、「与える」という名分で無理矢理押し付けられたこと、自分には関係ないと言いたくなることも『自分でいなければならないこと』の内にある。生きづらさをなんとかするには、よく見て、触って、知らなければならない。暗いところにしまったままだと、それがどんな『自分』なのかが、なかなか見えてこない。同じような形をした自分のかけらを、ひとつひとつ、明るくてよく見える場所にザッとぶちまけて、よく見て、触って、知る。その作業は、長い時間をかけて行うもの。とてもつらくて、痛い。だがメリッサは、ナディアは、そしてきっとティンクも、そこを抜けようとあがき、もがく。その辺の情け容赦ない抉りっぷりがこの作品の肝。嘘などつかない。ありのままをフィクショナルに再構築して、描く。さすがオーツ。

 

オーツ先生は「狂おしいまでに親の愛を求めているのに、まったく顧みられることのない子供」を描かせたら天下一品。グッサグサくる。「女性であること」の痛み描写も、同様。オーツが描くキャラクターが発する「いま痛い!痛みを止めて!」という声、訴える言葉。どれもグッサグサ抉る。登場人物それぞれの「いま痛い!痛みを止めて!」は同時に「もう自分ではいたくない」という意味でもある。自分でいることをやめるか、続けるか。選択肢はそれしかない。

 

オーツに抉りまくられ、苦痛と絶望しかないのか世の中には… というところでYAジャンルの妙が効いてくる。メリッサの、ナディアの、それぞれの coming of ageモーメント。「ルークよ!わたしがお前の父親だ(シャコー」なドラマティックな演出というよりは、木蓮の固いつぼみがゆっくりふくらんでやがて開くように、静かに突然やってくる。

 

いまのわたしが受け取ったこと。子供は誰だって自分の親に愛されたい、褒められたい。認めてほしい、安心させてほしい。それをどう乗り越え(させられ)ていくか、なにと決別しなにを受け容れていくか。この作品が語るのは、弱さでもあきらめることでもない。強さでもないし、幸せでもない。これは、ティンクが言い忘れた、二つ、三つのことについての物語。グッサグサ抉りながらも、しっかりYA。オーツ偏愛。