ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』

どこか遠くに運んでくれる物語がだいすきだった。ここではない、どこか遠くに。本を開きページをめくれば、わたしは物語の中へ吸い込まれていく。ここで聞こえる音も見える景色も消えて、どこか遠くに運ばれるのだ。もう戻ってこれないくらい、ここから遠ければ遠いほど、よかった。ここを忘れてしまうくらい遠くに運んでくれる物語が、わたしはだいすきだった。

 

友人と児童文学の話をしたとき、彼女が挙げた「子供のころ大好きだった本」の上位に入っていたのが『トムは真夜中の庭で』だった。わたしも読んだはずなのに、トムが真夜中の庭で何かするらしい、という、タイトル見れば歴然としたプロット以外、ぼんやりしていて覚えていない。『どこか遠くの物語』を偏愛していたあの頃… これは間違いなく途中で飽きて放り出したね、うん。

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

弟ピーターがはしかにかかり、キャッスルフォードの叔父叔母の元へ送られることになった、トムことトム・ロング少年。トム自身もはしかに感染している恐れがあるので、アラン叔父さんとグウェン叔母さんが住む、庭のない、大きな邸宅を仕切った上階のフラットから出してもらえない。できるのは、今日あったことを手紙にしたためて、弟のピーターに送るだけ。憤懣やる方ないトムは、ある夜、建物の大広間にある古い大時計が13時を打つ音を聞く。誘われるように、こっそり寝床を抜け出したトムは… 「この時代から!2016年現在も変わりなく猛威をふるう、はしか!はしかってこわい!予防接種!」と、そこに反応するわたしは、もう『子ども』ではなく大人だった… 

 

トムが屋敷を忍び出ると、昼の光さすそこには、あるはずのない大きな庭が。そこは、トムのいた時代ではなく、屋敷がまだメルバン家邸宅だった頃、ビクトリア朝時代だったのだ。子供の頃のわたしが飽きた点は、まさにこれ。現実から踏み出して、そこにはまた現実がある。時を超えただけで、現実が入れ子になっている。異界好きとしては、それが物足りなかったのだろう。大人になったわたしはそんな偏愛をちょっと傍に寄せておけるようになったし、現実が少しだけずれて自分に違う顔を見せるだけでも、別世界へ渡るのと同じくらいワクワクできるようになっていた。

 

毎夜寝床を抜け出しては庭へ行き、探検するトム。そこでの体験を、弟ピーターへの手紙にしたためる。そしてある日、屋敷に住む少女ハティと出会うのだ。この庭で、トムの真夜中とハティの昼が、トムの今とハティの今が、交差する。トムにとっては毎晩の出来事なのに、ハティにとっては今日だったり数年後だったりと、ランダムに時間が飛ぶ。トムとハティのやりとりから、ハティがもう最初に会ったハティでないことが、少しずつ分かる。今にいながら昔に来て、昔の今に置いていかれるトム。入れ子だと思っていた点が、実際には多方向に、複雑に動いてる矢印なのだ。こんがらがるようなこのエフェクトを、ピアスは実にシンプルに、映像的な描写で綴る。そして、置いていかれるトムと進んで行くハティの対照に、ついに読者は気付くのだ。時間は、ひとつの方向に、進むだけなのだ、と。トムにとっても、ハティにとっても。この辺りまで読むと、やめられなくなる。本を置くのがつらいのだ。この感覚は、あの頃と同じ。

 

トムはどうなるの?ハティは?と読み進めた最後には、静かな静かなカタルシスが待っていた。時間には終わりがないように、物語にも終わりがない。そして、物語はいつもわたしをどこかへ運んでくれるのだ。