ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』

数ページ読んでしっくりこなくて、1年くらい積んでいた。ただ、結果的に(そして非常にラッキーなことに)この作品に関してはそれが功を奏しましたね。こりゃ、1年前のわたしには「まだ」な本だ。いまなら、それがとてもよく分かります。

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

女性が「自分ひとりの部屋」を持つこと、それはいったいどういうことなのか。「女性と小説」の観点から、ふたつの講演をもとに書かれている。わたしには英文学・英文学史の知識がほぼない。だから、ウルフさんが例えに挙げる作家名・作品名を読んでも、イメージさえ浮かんでこない。これはかなり残念なこと。知識があったらもっともっとウルフさんに近づけたはず。しかし、いまからそうなるために本を読んでも学んでも、わたしの寿命が先に尽きますね。このエッセイを100%理解して楽しめないまま、この世とオサラバ。かえすがえすも、それが残念。

「ふんふん、へえ、「小説」の才能を持つ女性ねえ。才能がない女性は、どうすりゃいいのよ。チェッ」とウルフさんにスネてみる。そんな気持ちで読んでいても、ウルフさんの文章はどんどん読者を引き込む。そうやってスネながら読み続けるうちに、気がついた。ちょっと待て… このエッセイのもとになった講演は1928年に行われたもの。90年近く前ってことじゃないですか!それでは、なんですか?90年近く経って、ようやくわたしのような者が女性学や自己解放という言葉を口にしたり考えたりできるようになったということですかね?ちょっと時間かかりすぎてやしませんかね?どういうこと?もしかして「世の中」というものは血の巡りがあまりよろしくないのでしょうか?それとも我々は兎にも角にも頑なな生き物で、変化を好まないだけなのでしょうか?先に立ち、道を切り拓いた人たち。そう、わたしは彼女たちの足跡をたどっているだけなのです。そんなわたしにさえ、まだまだ「歩きやすい」とは言えない道。ウルフさんの頃は、どうだったのですか?才能があり、真実を見つめ、それを言葉にする。ウルフさんは、先に立って切り拓いてきた人たちの代表的なひとり。とても生き辛かったのではなかろうか。わたしごときがスネてみせるところではなかった。 ありがたい。

 

邦題『自分ひとりの部屋』。原題 A Room of One's Own は、「自分だけのもの」を「所有している」印象が際立つ。それはつまり、マインドパレス。誰のものでもない、自分だけの知識で作り上げた部屋。そして、自分の足で立って歩ける、そのための部屋、それを得、維持する収入。中断されない、自分だけの時間。90年も前に、そこまできっちり言い切るウルフさん。ありがとう。ウルフさんのように、わたしたちも「自分ひとりの部屋」を手に入れたい。後戻りはしたくない、と思っているのです。  後戻りは、したくない。

 

以前は「まだ」だった本を再度開いてみると、スイスイ読めて、しかもおもしろい。そんなことが続いていて、それがまた偏愛の糧に、いや、読書の糧になる。やめられませんな。

読了メモ・2017.3

3月は体調が悪くて全然読めなかった。さらに春休みが加わり、読書時間の確保が難しかった。読むのはサッパリなのに、積ん読だけが増えた月。

 

『実験する小説たち』

木原善彦

Twitterで見かけて読んでみた。そういえば、わたしは文学専攻だったよな、と思い出したり。メタ、メタ、そしてメタ。例としてあげられたものの中に何冊か読みたい本があった。

 

『善き女の愛』

アリス・マンロー

短編集。相変わらず、一球一球が重いよ、マンロー先生… きついという意味ではなく、表層は小説の体を取っているのだが、文章を構成しているレイヤーが何層もあって厚く底が見えないくらい深い、という重さ。

 

『話の終わり』

 リディア・デイヴィス

岸本佐知子

「なんじゃこりゃあああああ!!!」と声にならない絶叫で始まり、絶叫で終わった。とにかく、すごい。リディア・デイヴィス、すごい。すごすぎて、絶叫。オールタイムベスト10作をあげるとしたら、絶対上位3位内に入れる。メタすぎてすごい。読むのにすごく時間がかかってしまったのが残念。一気に読みたかった。これは、すごい。しつこい。そして、すっかり岸本さんのとりこ。

 

これらの他にKindleサンプル版をいくつかダウンロードして読んだ。主に米文学の短編集。Penguin Classics the New Penguin Book of American Short Stories: From Washington Irving To Lydia Davisがとても良い。積ん読をもう少し減らしたら、買うつもり。

読んだもの、いくつか

わたしはあまり日本の現代小説を読まない。いや、ここ10年以上読んでいなかった、が正しいな。理由は… 自分でもわからない。なんでだろうね?

 

諸事により、スッスッと読める本を手元に用意しておく必要ができた。バタバタと忙しくなるときにこそ、なぜか難解な内容のものを読みたくなる。読んで、落ち込む。よせばいいのに、同じ状況になると、何度でもやる。しかし、2017のわたしはキメるときゃキメるよ!読書好きの友人たちが前から薦めてくれていた作品をいくつか、図書館で借りてきた。こういう機会がないと、日本の現代小説を読まないし。そのときのわたしは、これがかなりのボディにきいてくるブロウになるとは想像していなかったのだ。

 

津村記久子

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

ポトスライムの舟 (講談社文庫)

浮遊霊ブラジル

津村記久子作品は、とにかく想像力と表現力がすごい。文章に抑揚があって、語り手の頭の中にも入り込んで、まるで彼らの見たもの聞いたものを、読み聞かせてもらっているようだ。『とにかくうちに帰ります』は、雨風うちに帰れないという三拍子が揃うとほんとに感情がなくなるよね… という話。登場人物たちの気持ちが仰ぎ見るビルや停まってくれない満員のバスに置き換えられたりしていて、良き。個人的には『ポトスライムの舟』の親和性をより高く感じた。いつかわたしもそこにいたかもしれない。そんな気持ちになったかもしれない。言葉にしなかったあれこれを言葉にしてくれる作品。『浮遊霊ブラジル』は、もう熟していまかじったら美味しいところしかない津村記久子!表題作『浮遊霊ブラジル』と『地獄』に溢れる想像力!これはすごい。ユーモラスな設定に潜む、諸行無常

 

川上弘美

このあたりの人たち (Switch library)

パスタマシーンの幽霊 (新潮文庫)

川上弘美『このあたりの人たち』『パスタマシーンの幽霊』。以前に触れた『MONKEY vol.9』で初めて読んだのが連載『このあたりの人たち』。ちょうど岸本佐知子さん訳の「居心地の悪い」作品偏愛が始まっていた頃。こな「居心地の悪さ」には色々あるけれど、『このあたりの人たち』に詰まった居心地の悪さは、現実と想像の境がとても曖昧なところ。それが語り手の子供の世界、子供の目線、子供の認知のズレなのか、想像力の産物なのか、現実なのか?虚と実の間にもうひとつ、あえて呼ぶなら「幽」のような世界があるようだ。現実の曖昧さと「幽」に織り交ぜて、「ここで生きていくこと」が語られる。良き。

 

《柚木麻子》

本屋さんのダイアナ (新潮文庫)

本屋さんのダイアナ』 は、本が好きで、さらに『赤毛のアン』シリーズが好きなわたしには「ずるい」作品。『赤毛のアン』インスパイアだなんて、好きに決まってるじゃないか!オマージュかなと思いきや、オマージュでありそれ以上だった。視点の切り替え、対比、それぞれの「いまここにある、わたしの痛み」描写が、鮮やか。 

 

忙しさを乗り切るために用意したのに、睡眠時間を削ってまで読んだ作品たち。ここしばらく現代小説を読もうとしなかった理由は、こうやってのめりこんじゃうから、なのかもしれない。

読了メモ・2017.2

毎月の記録。2月はかなり読んだ。偏愛にひた走る月だった。

 

Becoming Nicole: The Extraordinary Transformation of an Ordinary Family  (未訳)

by Amy Ellis Nut

米国メイン州に住むトランスジェンダー・ニコールが「ニコールになるまで」を丹念に追ったノンフィクション。ニコールについては、サイエンティフィックな見地からの叙述が多く、ニコールはニコールになったのではなく、そもそもニコールだったと印象付けられる。ニコールがニコールになったのではなく、周りがニコールがニコールであることをようやく理解した、という話。ニコールがニコールのなる過程において、幻肢痛という、防ぎようのない知覚の影響を知り、身体性認知というものに興味を持った。

 

『触楽入門』

仲谷正史(テクタイル) 著

「身体性認知科学というものに、突然興味を持った!」と打ったら響き、友人が貸してくれた一冊。五感、特に触覚と知覚のはたらき。感知できないところで、わたしたちの判断や選択がいかに五感に直接的影響を受けているか。メルロ=ポンティへの準備も兼ねて。

 

『遊牧 −トナカイ牧畜民サーメの生活』

鄭仁和 著

寒冷地小説偏愛。人類学者オスカー・ルイス考案の調査方法『ラショウモン・メソッド』に倣って書いたそうだ(あとがきより)。寒冷地小説マニアとしては、摂氏マイナス60度の世界を詳細に説明するくだりが気に入った。

 

『火を熾す』

ジャック・ロンドン

柴田元幸

寒さや痛み。ジャック・ロンドンが感覚を文章に変換して伝える、そのやり方がわたしを惹きつける。言葉で主観を共有する力。寒冷地小説偏愛から表題作と『生の掟』そして内から外からの痛みを描いた『メキシコ人』がよかった。シンプルながらずしりとくるロンドンの文章、とても好き。

 

キリシタンの文化』

五野井隆史 著

日本キリシタン史偏愛。さすがにスラスラ読めて、ちょっと達成感があった。入門書よりはもう少し踏み込んだ内容。布教における音楽の有用性についての章が興味深かった。

 

『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』

キャスリーン・フリン 著

村井理子 訳

タイトルに臆せず読むと、なぜこのタイトルしかなかったか、が分かる。自分ひとりでどうにかできる、が内から外からの抑圧だったりする。さらに、女性として、或いは自立した社会人として、馴染みのないこと、知る機会を逃してきた未知のものへの恐怖と偏見、重なったいくつもの呪縛が「料理」。そして、自分たちを閉じ込めていた料理そのものを通じて、ひとりひとりがそこから少しずつ、解き放たれていく。

 

『荒野にネコは生きぬいて』

G.D.グリフィス 著

前田三恵子 訳

息子の加入しているブッククラブ今月の本。タイトルで察したらしく、冒頭と結末だけで読んだ気になりやがったので「こんちくしょう、その間がキモなんだよ!」の気持ちを込めて、わたしも読んだ。あらすじをちょこちょこ話すことによって興味を持ったらしく、ちゃんと読んでくれたので、成功。ムーアの厳しさと人間の身勝手さに翻弄されながら、自らの生を生きようとするネコの話。

 

『とにかくうちに帰ります』

『浮遊霊ブラジル』

『ポトスライムの舟』

津村記久子

直感、観察、推察、自制。せつなさとかなしさ。共有できると思いたいけど、できないもの。想像力。居心地の悪さを、柔らかく、ユーモラスに語る。

 

『このあたりの人たち』

『パスタマシーンの幽霊』

川上弘美

居心地の悪い「ズレ」。短編集偏愛好み。

 

本屋さんのダイアナ

柚木麻子 著

赤毛のアンマッシュアップと思いきや… そうであってそれ以上。

 

『からすが池の魔女』

親戚を頼り、バルバドスからコネチカット植民地に渡った少女の物語。国教支持、ピューリタン、クエーカーなど、史実に基づいて語られていて、児童文学とされているけど、これは… アメリカ植民地時代偏愛なので、好きな作品。 

読了メモ・2017.1

毎月の記録。

『孤児の物語』I・II

キャサリン・M・ヴェランテ 著

井辻朱美

井辻朱美訳のFT偏愛。物語の中に物語、その物語の中に物語… 入れ子構造の連続性。円環。語り終わった先に、新たな物語。途中、その入れ子構造を複雑にしすぎて、作者自身がそこに絡め取られてしまったかのようなところがあり、「おーい、戻ってこーい」な気持ちになった。読者も作者もテーセウスでありミノタウルスである、想像力の迷宮みたいな作品だった。

 

罪と罰を読まない』

岸本佐知子三浦しをん吉田篤弘吉田浩美

読まずに語る『罪と罰』。四人四様の想像力と表現力に掴まれて、とにかく笑う。でも最後には「ドスト」が語る、「江戸」と同時代の「サンクト」の「ラスコ」の話『罪と罰』を読みたくなる。いま誰かに本を薦めてくれと頼まれたら、迷わず薦めるのが、これ。

 

『バッド・フェミニスト

ロクサーヌ・ゲイ 著

野中モモ

原著読了から、邦訳を待ち望んでいた1冊。今後もコンテンポラリーフェミニズムのエッセイがもっと邦訳されるといいな。

 

『わたしは倒れて血を流す』

イェニー・ヤーゲルフェルト 著

北欧のティーンネイジャー、自由そうに見えて、自由だけど、悩みや苦しみは国境越えるよね。縛られて、解き放たれるまでの助走。

ジョイス・キャロル・オーツ『二つ、三ついいわすれたこと』

年明けてた!こわい!絶賛下書き保存中状態のものがいくつかあるまま、年越し!こわい!って、年明けて早々ブログ更新していたことを忘れている!こわい!それよりなにより、このこわさが通常運転状態なのが、いちばんこわい!

 

考えがまとまらなかったりフリックがうまくできなくなってきて誤字脱字が多くなってきた、そんな酉年。いや、干支のせいじゃない。これまで何度かアドバイスをもらっていた音声入力も視野に入れつつ、2017も続くジョイス・キャロル・オーツ偏愛。

二つ、三ついいわすれたこと (STAMP BOOKS)

そもそも、未邦訳の多いオーツ作品。邦訳されているものの内いくつかは、なぜかYA。しれっとザクザク抉ってくるオーツが、10代向けに描く物語とは…?手加減してくるか?初手からお構いなしだった。関係なかった。YAとか、ジャンル分けとか、オーツ先生には、まったく関係なかった。物語の設定や登場人物はたしかにYAベースだけど、情け容赦ない抉りっぷりは、いつものオーツだった。

 

物語は『あのこと』から始まる。『あのこと』… ティンクがこの世からいなくなってしまったこと。風変わりで型破りで、カリスマティックなティンク。『あのこと』でティンクを失った痛みをきっかけにどんどん浮き上がる、ティンクの友人メリッサやナディア、それぞれが抱える痛みや傷、生きづらさ。『あのこと』が起きる前、記憶の中に浮き上がるティンク自身の痛みや傷、生きづらさが重ねられて、オーツ先生はグッサグサ抉りまくる。

 

生きづらさのひとつに、『自分が自分でいなければならないこと』がある。いまの自分でいるしかない。この自分のまま、生きていかなければならない。自分であること、それ自体が生きづらさ。加えて、自分には選択肢がなかったこと、「与える」という名分で無理矢理押し付けられたこと、自分には関係ないと言いたくなることも『自分でいなければならないこと』の内にある。生きづらさをなんとかするには、よく見て、触って、知らなければならない。暗いところにしまったままだと、それがどんな『自分』なのかが、なかなか見えてこない。同じような形をした自分のかけらを、ひとつひとつ、明るくてよく見える場所にザッとぶちまけて、よく見て、触って、知る。その作業は、長い時間をかけて行うもの。とてもつらくて、痛い。だがメリッサは、ナディアは、そしてきっとティンクも、そこを抜けようとあがき、もがく。その辺の情け容赦ない抉りっぷりがこの作品の肝。嘘などつかない。ありのままをフィクショナルに再構築して、描く。さすがオーツ。

 

オーツ先生は「狂おしいまでに親の愛を求めているのに、まったく顧みられることのない子供」を描かせたら天下一品。グッサグサくる。「女性であること」の痛み描写も、同様。オーツが描くキャラクターが発する「いま痛い!痛みを止めて!」という声、訴える言葉。どれもグッサグサ抉る。登場人物それぞれの「いま痛い!痛みを止めて!」は同時に「もう自分ではいたくない」という意味でもある。自分でいることをやめるか、続けるか。選択肢はそれしかない。

 

オーツに抉りまくられ、苦痛と絶望しかないのか世の中には… というところでYAジャンルの妙が効いてくる。メリッサの、ナディアの、それぞれの coming of ageモーメント。「ルークよ!わたしがお前の父親だ(シャコー」なドラマティックな演出というよりは、木蓮の固いつぼみがゆっくりふくらんでやがて開くように、静かに突然やってくる。

 

いまのわたしが受け取ったこと。子供は誰だって自分の親に愛されたい、褒められたい。認めてほしい、安心させてほしい。それをどう乗り越え(させられ)ていくか、なにと決別しなにを受け容れていくか。この作品が語るのは、弱さでもあきらめることでもない。強さでもないし、幸せでもない。これは、ティンクが言い忘れた、二つ、三つのことについての物語。グッサグサ抉りながらも、しっかりYA。オーツ偏愛。

岸本佐知子訳 マーガレット・アトウッド短編集『ダンシング・ガールズ』

読んで下さるひとがいるということだけで、すごい励みになります。いつもありがとうございます。今年も偏愛読書を続けていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 

さて。去年末にアリス・マンローで後頭部にガツンとヘビーなのを食らったのが抜けきらないまま、読んでしまったマーガレット・アトウッド。『描かれた女性たち』でとても良い組み合わせだったアトウッドの短編と岸本佐知子さんの訳を、また読みたくなったから。

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マンローとは味わいの異なる、世界と語り手の距離感がある。いまここから「どうしてこうなったんだろう」と俯瞰する。対象にスーパーフォーカスして、主語を大きくせずに主観を拡大させる。マンロー風味とアトウッド風味、どちらも偏愛に値するのだが、特にこの『ダンシング・ガールズ』は、どの作品も読後にうっすら、飲み干し切れない何かが残る。温かいミルクを飲んだあとみたいに。

『ベティ』は主語を大きくせずに主観を拡大させ、世代と個人を対照的に見せることで、抑圧された女性と自己解放への道を模索する女性、ベティとわたし、を描き出す。現在のわたしが、振り返ってあの頃、家族でコテージに住んだひと夏、を思い出す。隣のコテージにはフレッドとベティの若夫婦。主人公/わたしも姉も、フレッドに夢中になり、隣のコテージに入り浸る。そして… 時間を往来し俯瞰しながら、抑圧の中に生きる女性の姿こそが自分に道を示してくれた標なのだと言う主人公/わたしのひとこと。主人公の母は、世間が言うところの「良妻賢母」タイプではなく、それゆえに隠されていた抑圧と被抑圧。ただ、それはメランコリックでも示唆的でもない。思わずおかしなところにおかしな力が入るような… 緊張感に似ている。

「ライフルがない!」などと不穏な考えがよぎるほどわたしが感情移入しすぎた『キッチン・ドア』は、この短編集でいちばん気に入った一編。ゾンビアポカリプスの到来に怯えて暮らすわたしには、とてもとてもリアリティがある。51歳になるミセス・バリッジは、そのときがくることを知っている。毎年そうしてきたように、今年もピクルスやジャム、ジェリーの瓶詰めを作りながら、そのときを待っている。準備はできているのだ。「そのとき」はわたしたちの中にあって、解き放たれるのを待っている… そのときがくるのか、わたしたちがそのときに向かって進んでいるのか。原題はWhen It Happensというこの作品はメタファーたっぷり、かつ「マジで!ライフル!」と叫びたくなるほど、揺さぶられ方はリアリスティックだった。

 

この短編集を読んでいる間何度か「この世界はハリボテでできていて、突き破るとそこには得体の知れない恐ろしいなにかが待ち受けている」という気持ちになった。薄氷の張った上をドカドカ歩いているような、そんな気持ち。そして、岸本佐知子さんの編と訳も、今では偏愛リストの上位である。オフコース