ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

岸本佐知子編訳 『変愛小説集 II』

「変」と「愛」。境い目のそのギリギリのところをついてくる短編集第二弾。テーマに沿って、「プロットはいらない、フォルムだけ」を実践するショートストーリーを集めてギュッと濃縮させる編の妙は、岸本佐知子さんの岸本佐知子さんたるところで、それが偏愛の理由のひとつでもある。ショートストーリーにこれでもかと広げられる余白は、読者が埋める、もしくは埋めない。自由。

 

特に気に入ったものを、ふたつ。

ステイシー・リクター『彼氏島』

タイトルのまま。あるガール/あたしが海難事故に遭い、生き残る。たどり着いた島にはジャングルがあり、そこには若い男性だけの集落がある。「あたし」は偶然その中のひとりと出会い、彼に導かれるままその集落へと…

ひとりの女が男たちを支配する界。現実の裏返しのようなこの逆転を、「あたし」は利用し、満喫する。だが、楽しいときは長く続かない。「あたし」はひとり、逆転の世界を離れて暮らすようになる。そして、思う。

誰か、あたしを、あたしたちを調査して、論文を書いて。

本当なら自分自身でそれをやりたいのだけれど「あたし」にはもうこの世界を客観視するすべがない。

もしかしたらそれを読めば、ここでのあたしが幸せなのかそうでないのか、わかるかも知れないから。 

二項のみで作られた価値観を信じていた今までの「あたし」が揺らぐお話。世界が不確かな手触りになって、ガールが、あたしになるお話。

 

アリソン・ベイカー『私が西部にやって来て、そこの住人になったわけ』

冬のモンタナの山中に、通り名バッファロー・ギャルを伴って、主人公ホイットニーが幻の野生種・チアリーダーを探しに行く話。同じくチアリーダーを探し求める猛者が集まるシルバー・ダラー・サルーン。猛者は全員、女性。彼女たちをチアリーダー探しに追い立てるもの。幻の野生種。幻想か真実か。

たとえチームに入らなくたってチアはできる。

かくしてホイットニーは西部に残る。シルバー・ダラーは、俗語で「1から10で言うと、上位にランクインするようなセクシーなひと、魅力的なひと」。そうなりたいのか、すでにそうあるのか。探求?わたしたちが集うのは、シルバー・ダラー・サルーン。最初から、わたしたちはみな、チアリーダーなのだ。

 

分かつものではなく、同じく等しいものである。「変」と「愛」は、あまり違わない。

読了メモ・2017.7

どんどん暑くなってきて、どんどんつらくなってきて、たたみかけるように夏休みが!いつもよりさらに、読書の質が落ちてくるはず… 心してかからねば!

 

『穢れの町』

エドワード・ケアリー

アイアマンガー三部作の第二部。トリロジーの「2」は、「1」と「3」の間にかかるブリッジ… かと思いきや、それ以上だった。視点の切り替えが、いつもより効果的に作用した印象。ケアリー作品は、ジェンダー論でいうと男性学的なテーマがあると思う。どこに連れて行ってくれるのか、最終巻が待ち遠しい。挿絵も、良き。

 

『中二階』

ニコルソン・ベイカー

「2017ボディにきた作品」暫定2位。「小さな主題」だなんて呼ぶのなら、どれだけ小さくできるか見せてやんよ!!!

主人公/語り手独特の価値観で眺める世界。牛乳パックのストローの素材の考察とか、靴紐の結び方とか、もうほんとに、本人にしか意味をなさない小さな小さな小さなことが、たくさんたくさんたくさん… だけどこれは主人公の「内面描写」なのか?写実的描写、そして主人公/語り手を分類(カテゴライズ)するような、導入や前提として明かされるような、事柄は最低限のさらに最低限しか出てこない。それなのに読み手は主人公を詳細に知ることができる。昼休みの終わりに、中二階のオフィスに戻るため、エスカレーターに乗るまでの、小さな小さな大きな話。

 

『虎と月』

柳 広司

友人からの紹介。中島敦山月記』の李徴に息子がいたとしたら。その息子の視点で描かれる『山月記』のリイマジニング、もうひとつの『山月記』。漢詩がたくさんでてきて、それがストーリーの推進力のひとつ。息子による訳が添えられているので、漢詩が苦手なわたしにもやさしい作り。YAとして、高校生くらいの読者を想定しているのかな。そのくらいの年齢の人が、『山月記』と合わせて読むのも、良いかもしれない。

 

『木に登る王』

スティーヴン・ミルハウザー

好きな作家なのに読むためにかなりのエネルギーが必要なのが、わたしにとってのミルハウザー(とマンロー)。古典に明るくないので、あともうちょっとで届きそうな壁に届かない、登ることにすらたどり着かない、で終わってしまった。悔しい。ミルハウザーさんと柴田元幸さんの匠の技がぶつかりあって飛び散る静かな光と音に浸っている感じだった。

 

『忘れられた花園』(上下)

ケイト・モートン

こちらも、いつもの友人からのお薦め。読み終わった友人が「ずっと泣いてる」と貸してくれた。ロマンティック(ロマン主義、のロマンティック)なのかな?と構えて読んだが、そんなことより、わたしも泣いた。ミステリーの枠に収めながら、収まり切らず溢れてくるものが、すごい。意図的に溢れさせているんだと感じたが、ミステリーなのでこれ以上は言わないでおく。ミステリー好きな方には是非読んでほしい。

 

『神秘列車』

甘燿明

「きっとあなたの好み」と薦めてくれた方がいて、それならばと読んでみた。初・台湾小説。一言で言えばマジック・リアリズムになるんだろうけど、実の上に築かれた虚が実を覆い隠すことで、実の実たる痛みが読み手の体にギリギリと差し込まれるかのようだった。幻想では消せない痛み。土地に縛られる。そこから離れ(られ)ない人々。旅立っていく人々。力づくで侵入し、破壊の限りを尽くす支配と暴力。わたし自身をここから切り離してはいけない、と改めて。しかし、痛かった。

 

『書架の探偵』

ジーン・ウルフ

これも上記を薦めてくれた方から。「読了」以外は言いたくない!いいから読んで!わたしの味わったワクワクを、みなさまにも楽しんで頂きたい。

 

『文学効能辞典 あなたの悩みに効く小説』

エラ・バーサド/スーザン・エルキダン

辞典の形式で展開する、ひとくちメモみたいなちょっとした書評。すごい数の小説を扱っていて、追いきれないほど。手元に置いて、ちょっと読みたいなと思ったときに、ランダムに開いて読みたい一冊。

 

『屋根裏の狂女』

サンドラ・ギルバート/スーザン・グーバー

久しぶりに文学批評を読んだ。ジェンダー論批評は、読み応えがある。原書の初版発行が1979年…?ギャップを感じないのは、テーマがブロンテ姉妹だからかな。『ジェイン・エア』と『嵐が丘』くらい、ちゃんと読んでおこうよ… ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』を再読したくなった。『自分ひとりの部屋』は、いつかもう一度、ちゃんとした感想を書こうと思っている。

 

読了メモ・2017.6

えっ?!もう折り返し地点きた?!と誰もが思う6月。偏愛している日本キリシタン史の復習・筋トレも再開。

 

『目の見えないアスリートの身体論』

伊藤亜沙

「ヒューマン・ストーリーとして感情レベルの共感」が狙いではない。「エントロピーの小さい空間で身体の限界に挑む」とはどういうことなのか。ガチでアスリートの身体論。前半は「目が見えない」知覚、身体論を解説。後半は各競技でトップのアスリートへのインタビューという二部構成。「同じ問題を違うやり方で解くので、結果違うゲームになる」という説明が、すとんとはまる。わたしの世界と彼らの世界は同心円。やり方が違うだけで、同じ世界。平易で構えなくても読める内容。興味のある方は是非読んでほしい一冊。

 

『ウィザード・ナイト ウィザード I 』

『ウィザード・ナイト ウィザード II 』

ジーン・ウルフ

生きているうちに知ることができてよかったと思える作家のひとり。入れ子と縦糸横糸の張り巡らせ方が、とにかくすごい。カミング・オブ・エイジって、成長と共に愛を知る流れだと思うのだが、これはとにかく全編に愛がドバドバ溢れる作品なのだ、ということが読んだ後に分かる。泣いた。

 

『異形の愛』

キャサリン・ダン

読みながら、何度かケアリーの作品を思い出した。この作品もケアリー作品も、これまた愛がサブテーマのひとつだと思う…んだけど、この作品はとにかく容赦ない。PC?Tell it as it is. 婉曲表現?配慮?あるがままですでに美しいのに、なぜ?!わたしたちは美しく気高い!最初はあまりの露骨さにヒャッとなったが、愛しかなかった。作品そのものが愛おしい。

 

マルタン・ゲールの帰還』

ナタリー・Z・デイヴィス

「おい!コラ!マルタン!」が、感想。突然いなくなったマルタン・ゲールが帰ってくる。しかしそれはマルタン・ゲールを名乗る別人。数年後に本物のマルタン・ゲールが帰ってきて… というフランスでは有名な16世紀に起きたマルタン・ゲール事件。この本で初めて「歴史叙述的な語り」というものを読んだ。多角的、学際的。なるほどこれはおもしろい。

 

『女性を弄ぶ博物学

ロンダ・シービンガー

『魔女・産婆・看護師』案件。科学の分野から女性が完全にしめだされ、それがいつまでどのように続いたか。リンネの造語「ママリア(哺乳類)」を軸に展開される… のだが、ちょっとあちこちにとっちらかって、ジェンダー論が効いてこないような印象。しかし「哺乳」という分類は分類学上どうよ?なんで「乳」でまとめたよ?っていう根拠と当時の科学、ジェンダー論を知ることができた。順番的には、これより先に著された『科学史から消された女性たち』を読んでからこちら、の方がよかったかも。

 

『MONKEY vol.12 特集 翻訳は嫌い?』

柴田元幸責任編集

リディア・デイヴィスノルウェー語を学ぶ』が読みたくて。横目で見ながら通り過ぎておいて、結局いつも買ってしまうMONKEY。購読してもいいのではないか。原書で読む楽しさと、訳書を読む楽しさがある。元の文章を思考のフィルターを通して分解したり組み立て直したりして、最終的にまた元の文章に戻す。たくさんの引き算足し算引き算。この作業を経た文章を読むのが、わたしはとても好き。詳しくは別途、単体で記事を書こうと思う。

 

『MONKEY vol.4 特集 ジャック・ロンドン新たに』

柴田元幸責任編集

vol.12の巻末、バックナンバーを見て気がついたら注文していたので、これは本当に購読した方がいい。連載、川上弘美『このあたりの人たち』と岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』も読み逃したくないし… 購読やな。

ホリゾンタル寒冷地偏愛なので(雪山のような縦寒冷地ではなくて、タイガとか北極みたいな横寒冷地)、それでジャック・ロンドンも好きなのかなと思っていたけど、そうじゃないみたい。わたしはジャック・ロンドンの文章が好きなんだ。あと、ホリゾンタル寒冷地では犬なしには生き残れない(どころか、肝心なところはかなり犬に頼っている)んだけど、ロンドンは寒冷地でのサバイバルを、犬の目線から書いてしまう。犬だから知覚に限界がある、のではなくて、ホリゾンタル寒冷地では思考も行動もわんわんと同じくらいシンプルにしないと生き残れない、ってことなんですよ。それをまた、ものすごくシンプルな文章(「名詞と動詞だけの構成」)で、語る。計算してシンプル、というよりは時間との勝負でシンプルなのかもしれないけれど、それにしたってぶっつけであんなに簡潔で完成された文章をパッと書けるのがすごい。わんわんと生きるホリゾンタル寒冷地。ジャック・ロンドン。良き。

 

キリシタン音楽入門』

皆川達夫

筋トレとして。歴史的背景はスラスラ読めたが、とにかく音楽の知識ゼロなので、この本が差し出してくれたもの、95%くらい理解できていないはず。

 

天皇キリシタン禁制』

村井早苗

筋トレ。日本キリシタン史関連、いままでよりスイスイ読めるので、分かっていないのに分かったつもりになっているに違いない。「キリシタンの世紀」と呼ばれる通り、100年くらいだし史料も限られているので、同じことばかり読んでいるから「分かった」ように感じるのかもしれないけれど。

タイトル「天皇」よりは「キリシタン禁制」によりウェイトが置かれているイメージ。実際キリシタン禁制はそれぞれの立場から朝幕ともに関わっていたということ。わたしは秀吉の伴天連追放令くらいまでの流れを偏愛しているので、読むものがどうしてもそっち(前半)に偏りがち。バランス取れた栄養、という意味で1587年以降についても、読むように心がける。

 

計10冊。積ん読は一向に減らないまま、2017折り返しております!

読了メモ・2017.5

メンタルにくることばかりが起きた5月。反面、読書は充実していた。

 

 『シチリアを征服したクマ王国の物語』

ブッツァーティ

ブッツァーティの子供向け物語。クマがかわいい。「クマはクマとして」という寓意的なストーリーの中に、子供向け以上のなにかが。ブッツァーティったら!(好き

 

『山猫』

ランペドゥーサ

シチリアつながりで。同作のヴィスコンティ監督映画が好きで好きでしょうがなくて、リマスター版公開記念の特別装丁の表紙(アラン・ドロンとクローディア・カルディナーレに吸い寄せられたわけではない!むしろ、バート・ランカスターだ!)で、デデーン!と平積みされていたのでフラフラと買ってしまった。「原作か、映画化作品か」に関しては「作品の解釈は、みんな違ってみんないい」派なのだが、これは原作も読んでよかった。「盛者必衰の美学」、止まった時間の中でジワジワと崩壊していく様。その美しさは、原作も映画も同じ。原作と映画を並べると、ヴィスコンティが原作のどの部分にウェイトを置いて映画化したかが、分かる。しかし、またもや持病の「カタカナ弱い病」が出て、特に地名でよく混乱した。あと地方性というか、「ピエモンテ人はそういうものだ」「ロンバルディアのやつらは」みたいなのも実感としてはピンとこなくて、「どこにでもそういうのはあるんだなー」くらいの感想で止まってしまった。残念。そして、カタカナ苦手。

 

ケルベロス第五の首』

ジーン・ウルフ

ここからジーン・ウルフ祭りが始まる(ドンドコドン)。これはすごかった。なんでいままでジーン・ウルフ読まなかった?すでに起きたことへの預言書のような作品だった。

 

『ヴィーナス・プラスX』

シオドア・スタージョン

名前は知ってるけど作品は読んだことなかった、という作家。ジェンダー観をめぐる小説は、ときとしてすごくつらくなるので、手を出すのに躊躇する。この作品は、時代背景的に「ラブ&ピース」炸裂というか、マインド・エクスパンションというかセプティックタンクというか「箱の外で考える」というか… 自由だった。

 

『ウィザード・ナイト ナイト I 』

『ウィザード・ナイト ナイト II 』

ジーン・ウルフ

「わーい、ファンタジーだいすきー」だけでは読み切れない作品がある。これはそのひとつ。難解なのではなく、ヒントや伏線や、散りばめられ張りめぐらされたものがたくさんあって、ポジティブな意味で、読者が「読む」ことにかなりコミットすることになる。自分はそもそも「それ」であるのか、「それ」だと称することで「それ」になるのか。最後まで読んだ時、丹念に織られたタペストリーを俯瞰できる。読み終わったとき、圧倒されて泣いてしまった。

 

ジーン・ウルフ三作とシオドア・スタージョンは、期せずして「愛」の物語だった。

読了メモ・2017.4

4月。新年度と共に。気持ちだけはいつも前向きなんだけどなー。周りの予定にからめとられてだんだん失速していく、分かっているけどやはりストレス。とにかく、今年は色々と自分以外のことを優先する年だと実感。

 

メルロ=ポンティ 哲学のはじまり/はじまりの哲学(KAWADE 道の手帖)』

身体性認知に興味が出てきたところ、友人に薦められて読んでみる。哲学的アプローチ。業界用語がもりもり出てきて、そこをきちんと通って読んでないので、もちろん途中で詰んだ。ただ、興味を失ったわけではないので、近々続きを読むつもり。わからないことが楽しい、という変な感覚。わかればもっと楽しいんだろうな。

 

『ゆらてぃく ゆらてぃく』

崎山多美

フォネティカルに、と言えばいいのかな、頭の中で音にしながら読むと心地いい。知っているような、あたたかさ。ほっこり、とかではなくて、人肌。生のにおい。

 

『とんでもない月曜日』

ジョーン・エイキン

以前『トムは真夜中の庭で』を薦めてくれた友人から。J.K.ローリングが影響を受けた児童文学作家だとか。然り。ハリー・ポッターの世界観はここからインスパイアされたのかな?魔法界と人間界の交差点であるアーミテージ一家に、毎月曜日ごとに、魔法界がらみのなにかとんでもないことが起きる、という設定。なんとなく『メリー・ポピンズ』(某社の映画ではなく、原作のほう)を思い出した。子供の頃は「イギリス」と聞くと魔法を思い浮かべてワクワクしたものだが、そのワクワクがたくさんつまっている作品。

 

『自分ひとりの部屋』

ヴァージニア・ウルフ

買ってから1年ねかせる、というワインのような扱いで、満を持して読んだ。感想を全部言葉にするのが難しくて、なんだかおちゃらけた感じでしかブログに書けなかったのを、ちょっと後悔している。ウルフの、被害的ではなく、前に進めるような語り口。90年前から届いたエンパワメントの言葉。ウルフリスペクト。

 

『イエス入門』

リチャード・ボウカム

同氏著『イエスとその目撃者たち:目撃証言としての福音』を読みたかったのだが、ただ興味があるだけでは、おいそれと手が出せないお値段。作者名で調べたら、図書館の蔵書検索でヒットしたのがこの一冊。解説には、前述を入門編として要約したものとあった。ブラインドでサーチして当たりを引くと、得した気分。新訳聖書の四福音書を、史料として読み解くアプローチ。入門レベルのわたしにも、集中力が途切れることなく読めた。

 

『遊覧日記』

武田百合子

これもまた、友人たちからの推薦図書。著者の観察眼と表現力。外にも内にも向かう。あっさりした口当たりと、いつまでも残る香り。そんな印象。

 

『華竜の宮』上・下

上田早夕里

SFとFT、あまり日本人作家のものを読んだことがない。おそらく、「設定が自分に近くないものを好む」という、三つ子の魂百まで的なアレ。具合が悪いときにKindle版セールを知って、むしろ設定が自分に近い方が楽だなーという軽い気持ちで。しかーーし!甘かった。上橋菜穂子作品を読んだ時と似た印象。骨太な世界観。読ませる読ませる。グイグイきた。読者に予告なく突然なにかが現れてプロットを押し進める、みたいな展開もなく、すべてひとつなぎ。語り手の視点もおもしろいし、ストーリーによく効いている。地球温暖化という、いま目の前にある危機を取り入れた「起きるかもしれない未来」の話。

 

『《伊東マンショの肖像》の謎に迫る 1585年のヴェネツィア

小佐野重利

自分の情報収集力が及ばなくても、繰り返しつぶやいていると、どなたかが情報をシェアしてくれるという、Twitterの理想的使用法。日本キリシタン史偏愛だ偏愛だと言っていたら、教えてくださる方がいて、発売前から予約。舌舐めずりして待っていた本。いつでも日本はこの世界の一要素であったと確認できるのは、日本キリシタン史偏愛の理由のひとつ。

 

『狼少女たちの聖ルーシー寮』

カレン・ラッセ

表題作はバルガス=リョサ『緑の家』を思い出した。自分の力の及ばない「現実」をどうにか理解しようとする子供の視点。夢現つ、コドモノセカイ。

リディア・デイヴィス『話の終わり』

またもや、岸本佐知子さんの訳にお世話になっております。『2017最もボディにきいた本』暫定1位。短編偏愛のわたしとしては、同じ作家の手によるものでも、ノヴェル(長編)を読むときちょっと躊躇する。長編のところどころに「薄く引きのばされた」印象を受けてしまうことがあるからだ。「ショートストーリー(短編)とは、プロットではなく形である」のが、偏愛の理由。プロットのために膨らんだり薄くなったりせず、エッセンスだけがキュッと詰まった、それでいて余白の多い短編。リディア・デイヴィスの短編はまさにそれで、だからこそ好きだし、だからこそ長編読んでがっかりしたらイヤだなぁ…

話の終わり

…って、杞憂!!!最初から最後まで「なんじゃこりゃーー!!!」って(心の中で)叫びながら読んだ。なんじゃこりゃーー!!!連続するショートストーリーの形をしながら、長編として成り立っている。まるでノヴェルをプロットから解き放ったかのようだった。あまりにボディにききすぎて、下書きに下書きを重ねること20ページあまり。言いたいことがまったく言葉にならなくて、このまま灰になるかと思った。

 

リディア・デイヴィス『話の終わり』はタイトルが示す通り、話が終わったところがノヴェルの始まり。「話」と小説自体が入れ子になって、どちらも終わりを予知しながら終わりに向かって進む。まるで、すでに起きたことを預言するかのように。「話」は、「わたし」と「彼」の出会いから別れまでを語る。それだけなのに、叫びたくなるほどすごいのだ。

 

なにがすごいって、タイトルと小説と語りに見られるような、入れ子の構造、ひとつひとつの要素におけるバリエーションがすごい。

たとえば、「わたし」という要素。「話」において「彼」に対しての「わたし」がいる。そして、その「彼」と共に過ごした時間当時に「話」を書いている「わたし」がいる。「話」と「わたし」が時間と記憶、記録においていくつもの組み合わせで入れ子になっている。それを追うだけでも鏡像の内の鏡像の内の鏡像… さらにその上に現実でそれを書くリディア・デイヴィスがいて、そのリディア・デイヴィスには、執筆中のリディア・デイヴィスがいて… みたいな無限感があってわたしの中で「なんじゃこりゃーー!!!」のこだまが響く。

 

「わたし」と「彼」の描かれ方も、ノヴェルに見られるプロタゴニスト/アンタゴニスト、男/女、年長/年下、自/他… という二項の関係性ではない。「彼」は「わたし」が知覚、記憶、記録した「彼」なのだ。「彼」の形をとりながら、「彼」というプロットは見当たらない。等しく、「わたし」も「わたし」が覚えている「わたし」であって、「彼」や「世界」から見た「わたし」なのかどうかはわからない。なんじゃこりゃーー!!!

 

時間と記憶と記録。忘れるということ。これも繰り返し繰り返し出てくる。今の「わたし」はその頃の「わたし」が残した記憶と記録を元に起きた「話」を語り直そうとする。しかし、「忘れてしまう」のだ。今の「わたし」とその頃の「わたし」の、記憶と記録のズレ。忘れてしまって思い出せない。これは今の「わたし」が何度も繰り返して触れることで、ある出来事について肝心なことを覚えていたり忘れていたり、いくつかのバラバラに起きた別の出来事を知らずに繋いでひとつの出来事として記憶している。そのくせ飲んだワインの匂いや肌で感じた日差しの強さなんていう、取るに足らないようなことを覚えていたりする。記憶と記録の中に記憶と記録があり、そこに時間という不可逆的要素が足され、ある「世界」が姿を現わす。それは「わたし」に知覚されて顕在化する「世界」で、同時に「わたし」はその内に存在する。また、不可逆的要素である時間でさえ、「世界」であり「話」のなかで、記憶と記録、忘れるという動きによって可塑性が与えられる。なんじゃこりゃーー!!!

 

知覚情報が処理され、一時的に短期記憶域に収納されたあと、なにかが刈り込まれ、なにかが捨てられて、長期記憶となる。廃棄された記憶は、なんだったのか。作品全体を覆うテーマに小説(フィクション)とは、作家とは、語りとは、記憶とは、記録とは、時間とは、歴史とは… とこれが「話」と入れ子になっている。なんじゃこりゃーー!!!

 

薄く引きのばされたところなんてひとつもなく、漣がいくつもいくつも寄せてくるように展く。ノヴェルでさえプロットから解き放つかのような、自由で余白の多い作品だった。ボディにブロウをくらうたびに鳥肌立てながら「なんじゃこりゃーー!!!」って叫ぶ、そんな読書体験だった。岸本佐知子さんの選ぶ(訳す)作品もまた、然り。

アリス・マンロー『イラクサ』

『2016年最もボディにきいた本』堂々の1位、アリス・マンローイラクサ』。打ち込まれるパンチの重さに頭が痺れて、めまいがした。途中で何度読む手を止めて、本を閉じたか。俺ァ燃え尽きそうだったんだよ、おやっさん…

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

アリス・マンローイラクサ』は、九編収録の短編集。何が起きるか、というとドラマティックなことは、特に何も起きない。それが全編の共通点。記憶と時間、縦糸と横糸が交差した織り目が「いまいるところ」まで辿り着く、それだけなのに、メガトン級のボディブロウ。

 

余計なものはすべて削ぎ落とされたシンプルな文章。語られるのは主人公の物語。ある瞬間、さざなみが広がっていくように、彼女たちに訪れるエピファニー。主人公の中でなにかが変わるその瞬間。それをクライマックスとして、話が始まり、そして終わる。エピファニーはどれで、エピファニーの前と後、何が違うのか。読み手が時間や精神をinvest/費やさないとうっかり読み落としてしまいそうなほどの細密さ。マンローの描くその「変化」は「静」にとても近い「動」。

 

それまでジワジワときいていたボディブロウが急所のど真ん中にガツンと命中した一編が『ポスト・アンド・ビーム』。これはすごかった。あまりの衝撃に頭が痺れてめまいがして、吐きそうになったくらい、すごかった。「ポスト」つまり柱と「ビーム」梁というタイトルのこの作品は、主人公の人生がなにを支えてきたのか、なにを支えとしてきたのか。柱と梁とはなんだったのか。ストーリーとしては、それに尽きる。それだけなのに、重い。この話の中ではエピファニー/クライマックスが、ある一文に凝縮されている。しかし、わたしがクライマックスだと感じたその一文に対する、書き手の手離し方が、すごいアッサリしていた。そのアッサリ感こそが、急所ど真ん中に命中する一発だった。静に近い動であるエピファニーとその後。変化は、時を経て余計なものが削ぎ落とされ、いまは主人公の記憶をふわりと覆う薄衣。そんな描き方だった。

 

わたしにとってのマンロー、なにがそんなに重くて衝撃的だったのか。マンローが語るのは、カナダのどこかの街に住む、とある女性の話。そこには、緻密な計算を元に造られた構造物(であるはずのもの)が、自然かつ有機的に「とある街のとある女性の話」に組み込まれている。語られる話はすべて、主人公の視点、主人公の記憶に基づくもの。それが記憶として保存される時点においては、とても主観的で偏っている。のちに、つまり彼女たちによって語られる時点には、あるものは主観的なまま、あるものは客体となって見つめ直される。ただ、どの時点においても、話の元になるのは記憶であり、事実ではない(かもしれない)。そして、記憶が語られ再構築される時点においても、それはやはり記憶であって、事実ではない(かもしれない)。ここでマンローが語っているのは、とある女性の話だあると同時に小説とは、フィクションとはなにか、ということ。それは必ずしも事実を語るものではない。だからと言って、記憶自体が生のままかというと、そうでもない。事実と記憶、それが複雑に入り混じり干渉しあいながら、記録されている。そしてその記録が彼女たちだけのエピファニーを真実に変える。そこに小説が成立する。マンローは、主人公を通して、彼女たちの記憶を記録し直し語りながら、小説とはなにか、フィクションとはなにかを語っているのだ。ぎゃー!!メタ!!

 

ちなみにわたしは、メタフィクションとかメタファーとか、とにかく頭にメタが付くものを読み解くのが、もンのすごく苦手。メタが付くものを、小説を読む楽しみとして味わった経験があまりない。課題として、読む。その程度だった。そんなわたしにも、マンローのボディブロウは重かった。きっと、苦手なメタが自然に有機的に、それとは気づかず見逃してしまいそうなくらい細やかに、美味しいストーリーに組み込まれているから、なのではないかしら… 食欲に例えると(誰よりもまず自分にとって)とてもわかりやすい。

 

『ポスト・アンド・ビーム』のボディブロウがききすぎて燃え尽きてしまいそうだったので、しばらくはマンロー作品に手が出せないなと思った2016年末の記録。