ブクゑメモ

本読む苔の読書メモ。好きにやっちゃいましょうよ、好きに。

ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』

岸本佐知子さんの訳。それまで、わたしはミランダ・ジュライをよく知らなかった。作家名は何度も耳にした。でも、読者としてわたしは年齢的デモグラフィックには当てはまらないんだろうと勝手に決めつけていた。岸本さんは今年、わたしの短編偏愛モードをさらに加速させてくれた立役者で、足を向けては寝られないほど(読者として一方的に)お世話になった。その岸本さんが訳しているのだから読んでみようかな。そんな感じだった。わたしはほんとうに、ミランダ・ジュライをよく知らなかった。

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)

それは突然始まる。ミランダはカメラを至近距離に据えたままいきなりフォーカスをグイッと主人公にしぼって、淡々と語り始める。全てがとても、近い。いままで続いてきた時間の中のある部分を、世界ごと、ぷつんと切り取ってみせる。そこは「主観」しかない世界。実際、事実など、どうでもいいのだ。物語はどれも彼らのものであり、主人公/語り手にとってどんな時間の中で進み、彼らの目にはどう映って、そして彼らのなにをもたらしたのか(または、もたらさなかったのか)。それがミランダの描く世界。主観的で、とても孤独。そのうち、語り手と読み手の視点が重なり、どこまでが物語でどこからか自分なのか、境界がボンヤリしてくる。

 

同時にミランダは、彼らの住む孤独な世界、彼らを取り巻くものを、細やかに描き出す。色褪せたものは色褪せたまま、静かなものは静かなまま、乾いたものは乾いたままに。手首を掴んで引き込んでおきながら、同時に軽く突き放されてもいるようだ。うっかりするとボンヤリする境界が、浮き上がる。これは彼らの物語なのだ。そう言いながら至近距離に引きつけて離さない。これは誰の物語なんだっけ?

 

この主観と客観を、引きつけながら同時に同じ手でそれを突き放すというやり方、なんとなくジョイス・キャロル・オーツを思い出す。外に向けるのと同じかそれ以上の鋭さで、レンズは内をとらえる。主人公/語り手はビークル、読み手はそれに乗って、敷かれたコースを辿っているだけのはずなのに、なにもかもオーガニックで偶発的。

 

いちばんここに似合う人』は短編集だ。短くて、ふわっと始まり、ふわっと終わる。印象としては、小説よりは超短編や日記。中には、詩みたいだな、と感じるものもあった。共通するのは、主人公の孤独。物語はある一点、単調で色の薄い世界において、バチッと火花がはじける瞬間、に向かって進む。いつしか読み手は、物語の、その一瞬をとらえるために読んでいる。それをとらえる前と後、なにかが確実に変わっているはずなのだけれど、なにがどう変わったのか、読み終わってそれをしばらく考えることになる。ミランダの語る物語はとても短くて小さくて、でも全てがそこにあって、そして閉じない物語。連続性。そこもオーツみがあって、わたし好み。

 

特に印象に残ったものを、いくつか。

『水泳チーム』The Swim Team

海も川も湖もプールもない街で老人3人に水泳のコーチをしていた女性の語る話。笑い話になりそうで、ならない。それはとても親密でやさしくて、愛おしくなる経験。ここにいまほんとうにプールがあって、そして自分たちはそのプールに入って、わたしから水泳のコーチングを受けているんだ、自分たちはいま水中にいるんだクロールのバタフライの練習をしているんだ、泳いでいるんだという幻想を現実として受容し現実として行動してくれる、そんな人が自分の他に3人もいて、自分と同じ、もしくはそれ以上の熱量でその幻想/現実を共有してくれたとしたら… ああ、きっとわたしはその人たちから、離れて生きていけなくなるだろう。

 

『ロマンスだった』It Was Romance

この短編集の中で、いちばん引き込まれたのはこの一編。「女性として幸福に生きるためのロマンス講座」みたいなセミナーに参加した、ある女性の物語。顔に布をかぶされて、講師の話を聞いているシーン。他の参加者との距離感を「でも顔に布がかぶさっているので、わたしたちは互いに目を見交わして疑問の鎖をつなぐことができなかった。」と描写する。

とても鮮やか。小さな動作を言葉にする。その中にその瞬間のすべてが詰まっているようだ。世界の中に瞬間があって、でも瞬間の中に世界がある。ミランダ・ジュライのそういう表現が、とてもいい。とても好き。

別の参加者とパーソナルレベルでシェアしあい(つまり、一対一で話し合い)、抱き合って、泣く。「でもわたしたちが泣くいちばんの理由は、顔の前の空気を湿らせることだった。それはロマンスだった。」そして講座を終えた参加者はそれぞれの車に乗り込んで、それぞれの道を行く。瞬間的にその場の空気を分かち合う、それだけでもう「ロマンス」なのだ。言い換えれば、わたしたちがロマンスと呼ぶものの正体は?選んでその場にいて、瞬間を分かち合い、そして去る。わたしたちが絆と呼ぶものの希薄さ、脆さ、だからこその愛おしさ。みなひとりであり、孤独だということ。だからこその愛おしさ。

 

『何も必要としない何か』Something That Needs Nothing

本当の孤独とは、なにか。性的に自分を解放することが自己解放のすべてではない。でもそれはすべての内に含まれる大事な部分。あるひとつの方向に向けて放つことができて初めて解放が成立し、成立した瞬間から孤独が始まる。でも真実は、その前からずっと孤独だったのだということ。

 

『子供にお話を聞かせる方法』How to Tell Stories to Children 

父性と母性は子供を持つと「自然」と発生し、そして男女は父と母になり、血肉を分かつ我が子を愛し… それだけではない。孤独の形がひとつだけではないように、愛の形もひとつではない。わたしは子供を持って初めて自分以外の人間から、わたしのキャパシティを超えた熱量と必要性と緊急性をもって「我の命を守るのだ!」という要求をされた。それが愛なら愛なのだろうが、脅しと言えば脅しでもあった。ものすごいパワーを持つ存在が自分の日常の中に飛び込んできたら、そのパワーを自分に向かって放ってきたら、どうするか。そんなに簡単に、ひとつの言葉で、ひとつの形でくくれるものだろうか。それを愛としか呼ばないとしたら、なんだかしっくりこないのだ。愛ってたとえば、ステージあるいは通過点であり、足場としてはグラグラしたもので、結局最初から最後まで、不変なのは孤独だけなのかもしれない。でもそれって最初から最後まで、自分と一緒にいてくれるのも孤独だけだよね、と胸のざわめきがどこかへ逃げていく感覚も、また。

 

孤独から生まれる連続性。冬の夜、闇に包まれた木立の中に走る、誰に聞かれることもない、雪の落ちる音。昼の陽光の下きらめく、ひとすじの光。幽玄だなぁ、ミランダ・ジュライには体言止めが似合うなぁ、とひとりニヤニヤする。ミランダ・ジュライを知らなかった、わたしが。

 

読みたいと感じたらそれはわたしに向けて書かれたもので、そう感じたものは読めばいい。それをミランダと岸本さんが教えてくれた。